2003年9月28日(日)「しんぶん赤旗」
一九七五年二月二十七日に始まった本紙連載漫画「まんまる団地」が十月二日、一万回を迎えます。開始から二十八年、作者のオダ・シゲさんに今の思いを聞きました。 聞き手・中村尚代記者
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―いよいよ一万回ですね。
二十八年といえば長いようですが、本当にあっという間でした。描き始めたときは三十二歳で主人公と同じ年代、今は登場人物の一人「課長」と同じになりました。そうすると目線も変わり、最近は「課長」が多く登場するようになりましたね。
今年の三月、会社を退職して、漫画一本の生活になり、また状況が変わりました。これまでは、平日の分も土日に描きためていたんですが、今は毎日、昼すぎから五時ごろまで漫画を描いて、後は夕食の準備をしています。最近描いたインターネットを見ながら“ゴーヤチャンプルー”を料理する漫画は、実際に僕も同じ方法で作ったんです。
―描き始めと比べると、登場人物など絵柄がずいぶん変化していますね。
意識しているわけではないんですが、自然と変わってきました。描く方は、今と変わらないつもりで描いていたはずですが、あらためてみると変化に驚きます。最初は、いろいろ描き込んで一コマ一コマが窮屈な感じがしますね。人が小さく感じます。最近は、余計なものは描かないといいますか…。やっぱり慣れてきて、画面の処理がうまくなったのかな。
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―赤旗に連載漫画を描き始めたきっかけは?
実をいうと、小さいころから絵を描くのは好きだったけれど、まさか本当に漫画家になるとは思っていませんでした。十五歳から会社に勤め、絵といえば組合の機関紙にカットなど描いているくらいで。二十六歳のとき、組合の先輩にすすめられて日本漫画家会議主催の教室にいったんです。講師が政治漫画家の宮下森さんや倉田新さんでした。
同じく日本漫画家会議に所属していた田村久子さんの紹介で、全国商工新聞(発行・全国商工団体連合会)に四コマ漫画「のんき通り」を週一回連載することになりました。まんまる団地を描き始める一年前です。そして「のんき通り」を見た赤旗編集局の担当の人から声がかかったんです。
―「まんまる団地」のように家族の日常をほのぼのと描く漫画は、とかく堅苦しいと思われがちな赤旗の紙面の中では異色でしたね。
漫画は啓もう書ではないですから、楽しんでもらえれたらいいと思って描いてきました。
当時、編集局からは「サザエさんのような漫画を」といわれました。若い三十代のお母さんたちに喜ばれるものがいいと。それで、最初の案では独身の若い男性を主人公にしていたのですが、家族がいたほうが話が広がるんじゃないかという意見もあって、「まんまる団地」の主人公の家族が生まれました。
モデルは義姉の家族です。私は、まだ子どもはいませんでしたから。義姉の子どもたちは、男の子が小学校にあがる前、女の子は赤ちゃんでしたが、もう成人しました。早いですね。「まんまる団地」の、あの男の子のなかには子どものころの僕もいます。
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―会社と漫画連載。両立は大変でしたか。
両方やってきて、仕事は楽しかったけど、漫画は厳しかったというのが、正直な感想です。漫画の案は一、二時間テレビもラジオも消して、めい想して考えます。それでもなかなか出ないこともあり苦労しました。漫画の構想中に仕事のアイデアが浮かぶことは、よくありましたけど、逆はないですね。
連載を始めるとき、会社の仕事と両立できるか悩みました。そのとき、組合の先輩たちが「働きながら頑張れ」「おれたちもアイデアを考えるから」と辞めることに反対して。半年続けばいいやという軽い気持ちでスタートしましたが、結果として二十八年間、両立させたことでアイデアの幅が広がり、漫画にとってもよかったと思います。
でも、漫画の内容は読者の方がよく覚えていてくれて、「何年か前に、よく似たネタを使ってましたね」なんて指摘されることもあります。漫画を描いていて、一番気になるのは読者のみなさんの反応です。どういう風に受けとめられたか知りたいですね。自分では、おもしろいのかどうか、なかなか判断できません。それに、みなさんの応援が一番の励ましですから。
今年の春、日本漫画家会議の事務局長を引き受けました。若い人に、四コマ漫画や一コマ漫画のおもしろさを引き継いでいきたいと思っています。