2003年8月15日(金)「しんぶん赤旗」
日本占領下の一九四四−四五年、日本による食糧の強制徴発に飢饉が重なって、ベトナム北部を中心に当時の人口の一割に相当する二百万人ともいわれる餓死者が出ました。この飢餓と爆撃の犠牲になったハノイ市民を追悼する記念碑の付属施設として、記念館がこのほど完成しました。旧暦のお盆にあたる十二日、ファン・バン・カイ首相が非公式に記念館を訪れ、記念碑に線香を手向けました。
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ハノイ市が建設した記念館は、小さな二階建てで、さしあたっては、当時を物語る八枚の写真が掲示されているだけです。今後、掲示物を充実させていくといいます。
それを追悼する飢餓・爆撃犠牲者記念碑が五一年四月、市民有志によって当時のホプティエン墓地に建てられました。しかし、長期の戦争による混乱の中で、記念碑の存在は人々の記憶から遠のいていきました。さらに、周辺の宅地化が無秩序に進む中で、記念碑はその波にのまれ、民家の中庭にとり残されました。
記念碑を人知れず守ってきたのは、チャン・ホン・ニュンさん(46)一家でした。八八年にこの住居に移転してきた後、中庭の草木に埋もれた碑を発見し、貧しい中で自費を投じて保存に努めてきました。
記念碑の存在が広く知られるようになったきっかけは、日本の侵略戦争を美化した日本の歴史教科書問題でした。アジア各国が抗議の声をあげる中、ベトナムでも歴史の事実を後世に残そうという運動が起きました。
日本占領下の飢餓問題で日本の歴史学者と合同調査を行った歴史学者のバン・タオ教授が二〇〇一年三月、韓国で開かれた教科書問題のシンポジウムに出席したときです。「(韓国の)人々は事実のために勇敢にたたかっている」と感動し、歴史科学協会誌で飢餓・爆撃犠牲者記念碑の補修と永久保存を訴えました。
生物学者で、環境・生態系保護と都市景観保全に取り組んでいるハー・ディン・ドゥック博士も記念碑の保存をハノイ市に働きかけました。
ニュンさんは、一家で細々と記念碑を守ってきた苦労を涙ながらに回顧しながら、「こんな日がくるとは思わなかった」と語っています。
バン・タオ教授の話 一九四五年の出来事は、日本におけるヒロシマとナガサキへの原爆投下と同様に、ベトナムにおける痛ましい事件だった。記念碑の保存や記念館の建設は、ベトナムと日本の将来の世代、そして人類に対し、戦争の悲惨さを想起させ、平和を愛するよう訴えるという意義がある。ここは、日本の友人たちをはじめ、外国人客がベトナムの苦難の過去を思い起こす場所でもある。
ハー・ディン・ドゥック博士の話 記念館は今のところ、一九四五年の恐るべき飢餓を物語る数枚の写真が掲示されているにすぎない。しかし、記念館の建設は、ハノイ市がベトナム史の足跡に関心を払う一歩になる。ここは、ベトナムの若い世代に自国の歴史と愛国の伝統を教える場所だ。そして、日本の若い世代にも、ベトナム人民に対する日本の過去の誤りを記憶し、将来における両国の良好な関係を築くこと、ともに発展することを期する場所になるはずだ。
(ハノイで北原俊文)