2003年6月30日(月)「しんぶん赤旗」
不破哲三議長は、七中総の三日目(二十三日)に綱領改定案の討論についての結語をのべました。つぎに紹介します。
討論の結語をのべます。
昨日、四十人の同志が発言されました。文書発言も多くの同志が提出されました。
私は、これまでに何回も、綱領改定についての中央委員会での討論に参加していますが、これだけ多面的な議論がおこなわれた中央委員会総会はなかった、と思います。討論のなかで、多くの問題点が提起されましたし、改定案をよりよいものとする立場で積極的な提案がおこなわれました。そして、全体が、綱領改定案に盛られたわが党の到達点を歓迎する点で、共通の気持ちに満ちた討論だったことを、喜んで振り返るものです。
こんどの中央委員会総会での報告は、CS通信で全国に送られました。CS通信を視聴した同志は約七千人、続いてビデオを見る同志も多いことが報告されており、現在までに千三百六十通の感想がとどきました。その内容には、中央委員会での討論と共通するものがあります。複雑な内容をもった報告ですから、一回聞いただけでは十分わからない、活字で発表されてから読みなおしたい、といった声ももちろんありますが、多くの同志から、“知的刺激を受けた”、“わかりやすくなった”、“これをもって、わが党のめざす道すじをみんなに訴えられる”、こういう声が多く寄せられています。
とくに若い方がたが目を輝かせて報告を聞いていた、こういう状況が各地から知らされたことも、うれしいことでしたが、その一方、第八回党大会当時のことを思い浮かべながら、それ以来四十二年にわたる自分たちの活動がここに実ったかという感慨を書かれた年配の同志の方がたの感想もずいぶんありました。感銘深く読んだものであります。
中央委員会総会でのそういう討論や全国の同志たちの感想を受けて、綱領改定案を提案した幹部会の側の者として、本当に励まされ、また全党がもつ理論的、政治的な力とその水準に、確信を深めたものであります。
討論の内容については、さきほど、質問、意見に答える形でのべましたので、この結語のなかでは、今回の改定案が、わが党の綱領の歴史のなかで、どういう意義をもつのか、その改定の内容を全体としてまとめると、どういうことになるか、このことについて話したいと思います。
今回の改定案の内容は、大きくまとめると、三つあります。
第一は、民主主義革命論を、より現実的で合理的なものに仕上げたことです。
わが党の民主主義革命の路線は、いうまでもなく、一九六一年の第八回党大会で採択した綱領のなかで、定式化されたものです。当時は、発達した資本主義国のなかで民主主義革命をめざすということは、世界でもまったく新しいもので、歴史のなかでもほとんど前例のないものでした。
そのときの綱領討議のなかでは、第二次世界大戦後の東ドイツやチェコスロバキアでの革命が、そういう先例の一つとして参照されたこともありました。しかし、これらは、いまでは実態が明らかになっているように、ソ連の占領下でおこなわれたもので、もちろん、その国の共産党と国民自身の闘争もありましたが、大きな流れはソ連によって方向づけられ、自力による革命とはいえないものでした。
そして、当時、世界の資本主義諸国の共産党の運動の大勢としては、ソ連の強い影響もあって、社会主義革命論をとるのが圧倒的な流れでした。発達した資本主義国の共産党で、民主主義革命の方針をとるものは、日本共産党以外にはなかったのです。
そういうなかで、日本共産党が、世界の共産主義運動のなかで初めて、発達した資本主義国での民主主義革命の路線、旧来のブルジョア民主主義革命とは違った性格の民主主義革命の路線を革命の方針としたというのは、文字どおり開拓者的な意義をもつものでした。
それだけに、この分野は世界でも経験がない、わが国ではもちろんそういうたたかいの本格的な経験のないものでしたから、全体として多くの未知の要素がありました。
いま常任幹部会には、綱領討議の最初の大会となった第七回党大会(一九五八年)の代議員で、小委員会での綱領討議に参加した同志が二人います。上田副委員長と荒堀常幹で、常任幹部会の会議でも当時の思い出がだされました。
“民主主義革命という場合、アメリカの従属のくびきを断ち切る「反帝独立」の問題は、かなり具体的なイメージをもってわかるが、独占資本主義の国で、大企業の支配に反対する反独占のたたかいを民主主義的な内容ですすめるということは、なかなか具体的な姿がつかみにくい問題だった。しかし、一方で民族独立という任務があるわけだから、当然、反独占のたたかいも、社会主義的な性格ではなく、民主主義的な性格のたたかいとして発展するにちがいない”
そういうとらえ方が、意思統一の大きな流れだった、という話がだされました。私が報告のなかで指摘した当時の綱領討議の特徴――「反帝独立」の任務と「反独占民主主義」の任務について、これを「民主主義的な性格の闘争としてやりとげる」ことが「当面の変革の中心をなす」ということが、「理論的な認識と展望」は明確にされたが、その変革の内容を改革の諸政策として具体化するところにまでは、踏み込めなかったというのは、まさに、こういう状況を指摘したことでした。
わが党は、この四十二年間、綱領が明確にした民主主義革命の路線にもとづいて活動し、その活動のなかで、この路線を具体化し、より現実的でより合理的なものに仕上げてきました。今回の綱領改定案は、それを綱領の文章そのもののなかに、路線的に反映させたという意義をもっています。
そして、そういう地点に立ってふり返ってみると、世界で初めての発達した資本主義国での民主主義革命という路線を、よくもあの時期に開拓者的な意欲をもって決定したものだと、先人たちの労苦と知恵を思い浮かべるわけであります。
今回の綱領改定案で、いろいろの点がすっきりしたという意見がありましたが、これは、そういう過程をへているからこそできたことだというのが、大事なことです。
たとえば、改定案では、民主連合政府と民主主義革命との関連をより明確にしました。これも、この四十二年間、私たちは、政府に参加したことはありませんが、一九六一年の当時にくらべれば、政府問題ではるかに豊かな経験をへています。経済の問題、安保の問題など、各分野の政策問題についても、いま日本社会がなにを必要としているかについて、多くの具体化をはかってきました。これは、六一年当時には、それだけの具体性をもってはとらえられなかった民主主義革命の内容を、いまでは、身近でしかも実現可能な、現実の課題として具体化してきた、ということであります。革命論の道すじの問題で、概念が整理されたということも、活動のなかで問題のすじ道がよりリアルにつかめるようになったことを踏まえての成果であります。
各地の年配の同志たちが語っているように、綱領改定案での革命論の仕上げは、この間の全党の活動とその成果を生きいきと反映したものであることを、私は、かさねて強調したいのであります。
綱領改定案の内容の第二は、未来社会の展望を創造的に開拓したことであります。
未来社会の問題は、これまでの綱領では比較的短い文章で、六一年当時の綱領討論のなかでも、あまり討論の焦点にはならなかった部分でした。
日本が当面している革命は民主主義革命か社会主義革命かという問題に、多くの討論が集中しましたが、社会主義革命によって未来社会のどのような展望が開かれるか、ということは、あまり討論されず、報告でのべたように、社会主義、共産主義の二段階論など、当時の国際的な“定説”、教科書的な“定説”によって、未来社会の大まかな展望を示すにとどまりました。
では、なぜ、この二段階論が国際的な“定説”になったのか。これには、一つの歴史があります。この見方そのものは、マルクスが「ゴータ綱領批判」でその考えを展開し、ついでレーニンが著書『国家と革命』のなかで、おそらくマルクス以後最初の本格的な解説をおこなったところに、たしかに一番の源泉があります。しかし、それがなぜ“定説”とされるほどの重みをもってきたかを考えると、その経過は、スターリン指導下のソ連の独特の歴史と結びついていたことがわかります。
ソ連でも、一九三〇年代の半ばごろまでは、この二段階論に大きな光があてられるということはありませんでした。一九二八年に、コミンテルンが綱領を定めて、そのなかで未来社会の大きな展望を論じた時に、二段階論を紹介したのが目立つぐらいでした。多くの人が、第一段階だという「社会主義社会」自体、それが現実の問題となるのは、将来の話だと考えていました。
ところが、ソ連が新しい憲法をつくった一九三六年、スターリンが、憲法についての演説のなかで、いきなり、“ソ連はすでに、共産主義の第一段階、すなわち社会主義を実現し、共産主義の高度の段階への移行が、次の新しい目標になった”と宣言したのです。
この時期は、いまから振り返れば、一九二九年以降の「農業集団化」で、農村がたいへんな目にあわされたすぐあとの時期で、社会の現実としては、経済的な矛盾と国民的な苦難が深刻になっている時期でした。そのただなかで、スターリンが「社会主義は完成した、次は共産主義への前進だ」といいだしたわけです。それは、官僚主義・専制主義に大きくゆがみはじめたソ連社会の実態を、事実に反して美化する議論となりました。
そして、それ以後、ソ連社会は、マルクスが二段階論で描いた道を着々とすすんでいる、第一段階(社会主義)はすでに卒業し、次の、より高度な段階――共産主義社会そのものをめざしているというのが、ソ連が自分を位置づける決まり文句となりました。スターリン以後も、フルシチョフ時代、ブレジネフ時代など、ソ連社会の到達段階をどう見るかという点であれこれの移り変わりがありました。その全体を通じて、二段階論そのものは、マルクスの理論にソ連の経験が結びついたという形で、“定説”として扱われ続けたのです。
しかし、崩壊にいたる全過程で、ソ連社会が明らかにしたことは、この社会が、マルクスのいう社会主義社会や共産主義社会とも、またそれへの過渡期とも無縁な人間抑圧の社会であり、二段階論はそれを美化する道具だてとして利用されたにすぎない、ということでした。
今回、私たちは、この“定説”を大胆に乗り越えた創造的な探究によって、綱領改定案のなかで、社会主義・共産主義の新しい社会像を描きだしたわけであります。
この探究は、現代の諸条件のもとで、社会主義・共産主義が、日本の国民の前途に、また人類全体の前に、どんなにすばらしい未来を開くものであるかを明らかにしようと思ったら、避けることのできないものでした。
これまでのように、社会主義になったら生産物を「労働におうじてうけとる」ことになるといった社会像だとしたら、未来社会も、現状とあまり違わないなと思う人が、多いかもしれません。多くの人は、資本主義社会での賃金とは「労働におうじてうけとる」ものだと考えているからであります。これは、分配論の角度からの社会主義・共産主義社会論では、未来社会の真価を的確に語ることはできない、ということです。
「生産手段の社会化」が社会生活にどのような変化を引き起こすかを、未来社会論の中心にすえてこそ、私たちが道を開こうとしている新しい社会の本当の値打ちを明らかにすることができるのではないでしょうか。改定案が示した三つの効能は、この問題を解明する土台となるものであります。
まだ綱領改定案は草案の段階であり、これを指針にして広範な人びとに日本と世界の未来を語る仕事は、党大会以後に本格的にとりかかるべき課題となるものですが、私たちは、二一世紀の日本と世界の前途に、どんなロマンに満ちた未来があるのかを豊かに語るために、この綱領改定案に描かれた未来社会像を活用してゆきたいと思います。
こんどの探究は、こうした立場で、人間解放の精神に立った未来社会像を、科学的社会主義の原点を踏まえ、根本的解決を求めている日本と世界の根本的諸矛盾を踏まえて、明確にしたものであります。
綱領改定案の内容の第三は、二一世紀を見通した世界情勢論を展開したことであります。
党綱領を採択した第八回党大会の前年、一九六〇年十一〜十二月に、八十一カ国の共産党・労働者党の国際会議が開かれました。これは、日本共産党代表団が参加した本格的な国際会議としては、最初で最後のものとなった会議でした。六一年の綱領の世界情勢論は、ほぼ六〇年の会議の共同声明を基調にして書かれたものでした。
六〇年の国際会議で、日本共産党は、世界各国の党のなかでも、もっとも活発な活動をした党の一つで、共同声明の作成にあたっても、もっとも多くの修正意見を提起して、この文書をより正確な、より合理的なものとするための努力をつくしました。しかし、共同声明の原案は、もともとはソ連共産党がつくったものでしたから、世界情勢論の大枠は、ソ連流のもので、六一年綱領の世界情勢論にも、ソ連流の不正確な規定、問題のある規定が流れ込みました。
私たちは、ソ連の干渉主義や覇権主義とのたたかいに取り組むなかで、一九六〇年の共同声明の世界情勢論のなかにある誤りを明らかにし、とくに一九八五年の綱領改定(第十七回党大会)では、「資本主義の全般的危機」についての命題を削除するとか、ソ連覇権主義の有害性を指摘し、これとの闘争の意義を明確にするとか、世界情勢論の大きな改定をおこないました。また、一九九四年の綱領改定では、ソ連の崩壊という状況を受けて、ソ連崩壊にいたる過程の分析やソ連社会論についての結論的な命題を新たに書き込みました。
これらの改定は、世界の共産党の運動の全体のなかでは、先駆性を発揮したものでしたし、そのときどきの積極的な役割をもちましたが、しかしまだ、独自のまとまった世界情勢論を展開するところまでは、ゆきませんでした。
今回の改定案は、九四年の綱領改定以後、党大会および中央委員会で、そのつど、確認してきた世界情勢の認識の深まり、二〇世紀の総括と二一世紀への展望などを踏まえ、新しい立場で、世界情勢論の全体的な展開につとめたものです。
改定案における世界情勢論は、第三章の全体と第五章第一七節とからなっており、決して長い文章ではありません。そして、そこでの規定の一つひとつが、机の上での分析ではないこと、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の動向の分析と展望にしても、「市場経済を通じて社会主義へ」の路線に取り組んでいる諸国についての記述にしても、それらの命題には、この間のわが党の国際活動の実績とその到達点が反映していることを、読み取っていただきたいと思います。
いま、民主主義革命論の現実的で合理的な仕上げ、未来社会論の創造的な開拓、世界情勢論の展開の三つの問題について、綱領改定案のもつ意義を説明してきましたが、この三つの問題をつかんでいただければ、この総会に提案した綱領改定案のどこに新しい内容があるかを、整理した形で理解していただける、と思います。
これから、綱領改定案の全党討議が始まります。
さきほど開いた常任幹部会の会議で、第七回党大会の小委員会の一員だった荒堀さんから、発言がありました。“当時は、社会主義革命論と民主主義革命論のあいだの激しい論争のなかで、どうやって統一した党の路線をつくりあげるかが、それこそ関心の中心問題だった。全党討論でも、そこに全力がつくされた。しかし、今回の綱領改定案の討議は、すでに確立した路線をしっかり踏まえたうえで、私たちがめざす事業の方向をいかにして国民に訴えるか、綱領を、それだけの力をもつものにいかにして仕上げるか、ここに中心の内容がある。またそこにこそ、四十二年をへてのわが党の綱領の歴史の前進がある”。そういう指摘をしたうえで、“結語でぜひ伝えてほしい”という注文がありました。そのことを、正直にお伝えするわけであります。(笑い)
これからの綱領改定案の討議は、国民の多くのみなさんの目が向けられるなかで、おこなわれます。日本共産党について、いろいろな見方、考え方、立場に立つ方が、少なくとも日本の政治に深いかかわりをもつものとして、注目を寄せるでしょう。それだけに、そこでどれだけ積極的な討議がおこなわれるか、そのこと自体が、わが党の大会の成功につながり、さらに今後の事業の成功につながるものであります。
そういう意味で、中央委員会のみなさんには、綱領改定案がここで採択されたあと、全党で積極的な綱領討議を巻き起こす先頭にぜひ立っていただきたい、と思います。
また、多くの発言者が、この討論を「大運動」の成功に結びつけること、きたるべき国政選挙の躍進に結びつけることが大事だと、強調されました。第八回大会当時、「赤旗」の党生活部の記者だったという吉岡さん(国会)は、大会を迎えた全国の党組織の状況をその目で見て歩いた経験を思い起こしながら、綱領討議のなかで党建設の面でいかに大きな躍進が実現されたかについて、語りました。松本さん(国会)も、当時を振り返って、同じことを訴えました。
みなさん。第八回党大会当時のその勢いを、二一世紀初頭の新しい時点で、この日本にふたたび巻き起こすためにも、これから党大会までの中央委員会のみなさんの努力が、たいへん重要であります。ぜひ、新たな決意と新たな展望、胸おどるロマンをもって、その活動に取り組んでいただきたい。そのことを申し上げて、結語を終わるものであります。