日本共産党

2003年6月4日(水)「しんぶん赤旗」

世界とアジア――二十一世紀を迎えて

大阪AALA創立40周年

不破議長の記念講演


 五月三十一日、大阪府アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(大阪AALA)の創立四十周年記念講演会でおこなった記念講演。発表にあたって、若干の整理・補筆をおこないました。


写真

講演する不破哲三議長

 みなさん、こんにちは。不破哲三でございます。

 きょうは、大阪府アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会創立四十周年の記念の集いということで、さきほども四十年の歩みをふりかえるスライドを拝見しました。実は、私が日本共産党の本部で仕事をするようになってから三十九年、一年違うのですが、ほぼ同じ時期に、国際的な問題にかかわりはじめたものですから、同じ歴史を生きてきた一人として、たいへん感慨深く拝見しました。

「世紀」を尺度にして世界を見る

新しい世紀を迎えて

 私たちは、二〇〇一年に、二十一世紀を迎えました。新しい世紀を迎えるということは、大きな気持ちで将来を展望し、また新たな期待をもつ、誰でもそういう考えをもつものです。しかし、この世紀は、もう二年半ほどたちましたが、最初の年に、アメリカのアフガニスタンにたいする報復戦争が始まり、続いて今年は、イラクにたいする先制攻撃の戦争です。“最初からアメリカの無法な戦争が横行しているじゃないか、いったい、これでこの世紀は大丈夫なんだろうか”。こういう不安な見方も、一部には生まれているようです。

 私は、そういう時には、二十世紀の経験を考えてみようじゃないか、と言いたいのです。

二十世紀はどんな世紀だったか

 二十世紀には、二つの世界大戦がありました。ヨーロッパではファシズムが、日本では軍国主義が支配した、本当に残酷な暗黒の時代がありました。第二次世界大戦で、この侵略勢力を破ったのが反ファッショ連合国でしたが、連合国の二つの柱であったアメリカとソ連が、二十世紀後半には、それぞれ覇権主義の侵略戦争を起こしました。ベトナム戦争とアフガニスタン戦争です。

 こういう歴史だけを見ていると、二十世紀は、もっぱら暗い時代だったように見えます。しかし、「世紀」というものをまとめて、この百年の歴史を見ると、そこにまったく違う姿が現れてくるのです。

 まず、この世紀は、世界の多くの国ぐにが民族の独立をかちとった世紀です。二十世紀の始まりには、ヨーロッパ、アメリカと日本の帝国主義が世界全体をおさえこみ、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの国ぐに、人口では圧倒的多数をしめる国ぐにを植民地・従属国として、わがもの顔にふるまっていました。しかし、二十世紀の終わりには、植民地支配というものは地球上でほとんど過去のものとなり、かつて外国の支配に苦しんだ国ぐにが、みな政治的独立をかちとって、国連に加盟しています。植民地支配の一掃−−これが二十世紀の総決算でした。

 また、この世紀は、民主主義が世界の政治の主流となった世紀です。世紀の始まりには、国民主権という民主主義の原則を、国のあり方として高らかにうたっている国は、世界では少数派でした。しかし、二十世紀の終わりには、国民主権に背をむけて、“主権在君”や独裁政治を建前にしている国は、圧倒的な少数派になっています。国民主権の民主主義が世界的な政治の大原則となるという点でも、二十世紀は巨大な進歩をとげた世紀でした。人権の問題でも、まだまだたくさんの問題があるとはいえ、その進歩はめざましいものです。たとえば、女性の権利の問題ですが、二十世紀のはじめには、女性の参政権が認められていた国は、世界で一国だけでした(ニュージーランド)。しかし、いまでは、政治上の差別だけではなく、社会生活のなかでの差別も、人間社会には許されないものとして扱われる、そこまで世界は変わってきました。

 戦争と平和の問題でも、一九四五年には国連ができ、国連憲章で平和の国際ルールを定め、各国が横暴勝手に戦争をすることのない世界をつくることが、確認されました。このルールでは、戦争は、侵略をうけたときの自衛の戦争と、国連安保理事会が決定する国際平和のための軍事行動以外には、認められません。こういう平和のルールが決められたことも、世界の歴史ではじめてのことでした。

 こうして、一世紀をまとめて見ると、暗い事件がたくさんあった二十世紀が、人類社会の歴史のなかで前例を見ない、巨大な進歩がとげられた画期的な世紀だったことが、分かります。

 歴史の本当の歩みというものは、そのときどき、一年一年の明るさ暗さではなく、「世紀」という物差しで見てこそはっきり分かるのです。ここに二十世紀の大きな教訓があります。世界の歴史には、まともな流れもあれば、逆向きの流れもあり、それが渦巻いて進むものですが、そのなかで、結局は、進歩と平和をめざす人民的な流れが、歴史の方向を決めてゆくのです。

イラク戦争と国際政治

 では、新しい世紀−−二十一世紀を、そういう大きな目で見てみたい、と思います。

 たしかに、私たちは、この世紀の冒頭、アメリカが、イラク戦争という、無法な先制攻撃の戦争を強行したことを、経験したばかりです。しかし、この戦争自体が、それがどのような状況でおこなわれたかという、戦争のいきさつそのもののなかに、二十一世紀という新しい時代の特徴をはっきり刻み込んでいる、そのことを、私は、まずみなさんに強調したいのです。

戦争に反対する世界的な規模での大運動

 第一に、イラク戦争では、戦争が始まる前から、反戦平和の、嵐のような運動が、世界全体でまきおこりました。戦争を前にして、「こんな戦争はやるな」という声がこれだけ起こったというのは、歴史上はじめてのことです。

 この運動の規模と広がりを見るために、「しんぶん赤旗」で報道された全世界の集会・デモのうち、参加者が五十万を超えるというものを抜き出してみました。

 去年の十一月九日、イタリアのフィレンツェで、ヨーロッパ各国から集まった百万人の反戦デモがおこなわれました。今年の一月十八日には、アメリカのワシントンで五十万人のデモ、二月十五日には、ニューヨークで五十万人、ロンドンで二百万人、ドイツ各地で六十万人のデモ、三月十五日には、イタリアのミラノで七十万人のデモ。三月二十日に戦争が始まると、二十二日にはスペインで百万、ロンドンで百万のデモ、三十日にはインドのコルカタで六十万のデモ、四月十二日にはスペインで五十万、イタリアで五十万のデモ、こういう運動が記録されています。

 規模はこれほどではありませんが、一般にはデモ・集会が禁止されているイスラム諸国でも、戦争が近づくなかで、シリア、パキスタン、エジプト、レバノン、トルコなどで、数万というデモが相次いだことは、とくに注目されることでした。

 戦争が始まる前に、諸国人民の「戦争反対」の声が、世界的な連帯のもとにこれだけ大規模にあげられ、戦争が始まってもそれが止まらなかったということは、本当に歴史の上ではじめてのことです。

世界の大多数の国が戦争反対の声をあげた

 第二に、そういう運動を背景にして、世界の大多数の国が、戦争反対の意思表示をおこなったことです。私たちは、いま、この戦争にたいして政府が「反対」あるいは「不同意」という態度を明確に示した国を、固有名詞で少なくとも百三十以上あげることができます。国連加盟国は、現在百九十一ですから、世界の約70%にあたる国が、断固として、反対の声をあげたのです。

 アメリカは、戦争賛成の国の数を一生懸命数えましたが、公式に戦争賛成の態度を表明したという国は、開戦直前の国防総省の発表では三十しか見つかりませんでした。その後、いろいろ補足をしましたが、四十九が精いっぱいでした。

 多くの国にとって、「戦争反対」の意思表示をすることは、簡単なことではなかったのです。たとえば、パキスタンという国があります。アフガン戦争の時には、アメリカはここに前線基地をかまえました。今度も、パキスタンを戦争賛成の仲間に引き入れようとして、アメリカは、おどしたり、「援助」をちらつかせたり、アメとムチのたいへんな圧力をくわえました。しかし、民衆の世論と運動を背景に、議会でも真剣な討論をかさね、この戦争は支持できないという結論をだして、最後までこの態度を変えませんでした。そういう国の「戦争反対」の真剣な声が、百三十を超えたのです。

国連憲章と平和秩序をまもれの旗印

 第三に、国連です。イラク戦争の経過から、「国連は無力だ」という議論がありますが、これは、実際を見ないものだと思います。

 国連の安保理事会で、この戦争を支持するか支持しないかをめぐって、最後まで争われたというのは、国連の歴史でもはじめてのことでした。そして、最後には、アメリカが、国連での敗北を事実上認め、安保理での採決をあきらめて、国連のお墨付きをえないまま戦争を始める、という道に追い込まれたのでした。

 さらに大事なことは、さきほどあげた世界の反戦平和の運動のなかで、「国連憲章の平和のルールをまもれ」という旗が、堂々とかかげられたことです。

 さきほど、二十世紀に人類がなしとげた進歩の話をしたとき、その一つに、一九四五年、国連で平和のルールが決められたと言いました。このルールをきちんとまもろうじゃないか、ということが、安保理事会でこれだけ真剣に議論されたこと、安保理事会だけでなく、その他の国連加盟国も、この討論に参加したこと、さらに、世界の諸国人民の運動のなかで、「国連の平和のルールをまもれ」の声がこれだけの巨大な広がりをもったこと、これらはすべて、歴史上前例のないことです。

 「国連が無力」どころか、「国連のルールをまもる」問題が、こうして、はじめて世界政治の大問題、世界の諸国民の大問題になった−−ここにことの核心をなす大事な問題があります。

ベトナム戦争の当時とくらべてみると……

 いま起きている変化の大きさは、二十世紀後半の最大の侵略戦争だったベトナム戦争をめぐる状況といまの状況をくらべてみると、いっそうよく分かると思います。

 ベトナム戦争は、今度のイラク戦争にくらべて、アメリカの不正義の侵略戦争だという性格が、もっともっとあらわに出ていた戦争でした。イラクのフセイン政権は、独裁政権として世界で有名な政権で、イラク国民を本当の意味で代表する政権でないことも、広く知られていました。これにたいして、ベトナム民主共和国は、日本の敗戦直前にベトナム人民が決起してかちとった政権で、その後の独立戦争でフランスを撃破し、名実ともにベトナム人民の代表だという資格を実証した政権でした。ベトナム統一の前途も、世界の主要国が参加したジュネーブ協定で保障されていました。そのベトナムにたいして、アメリカが、ジュネーブ協定をふみにじってまず南ベトナムを支配下におさめ、一九六四年には、さらに北ベトナムに侵略の手をのばし、軍事攻撃を開始したのです。どこから見ても正当化する余地のない、まぎれもない侵略戦争でした。

 では、その時、世界はどうだったか。アメリカが一九六四年にベトナム民主共和国への侵略戦争を開始したとき、これに反対する大規模な反戦運動は、世界のどこでも起きませんでした。国連でも、アメリカの侵略行動にたいする告発は、まったく問題になりませんでした。日本をはじめ、多くの国で、平和・進歩・民主の勢力が、侵略反対の声をあげましたが、最初の時期には、それは強いものとはなりませんでした。

 私たち日本共産党は、戦争が始まって二年近くたった一九六六年二月、ベトナム人民支援の目的でベトナムに代表団を送りました。宮本顕治団長で、私も一員にくわわりましたが、その訪問が、ベトナム労働党(当時)との最初の本格的な会談で、その後の強固な連帯の出発点となったものでした。その会談の席で、ベトナムの党の代表が述べた言葉を、今でもよく覚えています。

 「アメリカがわが国への攻撃を開始したとき、ソ連と中国の反応の弱さに、世界が驚いた」

 ソ連も中国も、当時は同じ「社会主義国」を名乗っている「兄弟国」で、そのなかの一国にどこかほかの国が戦争をしかけてくるようなことがあったら、世界政治の大問題として取り上げるのが当たり前の筋道なのに、極東の一角で小さなトラブルが起こった程度の扱いしかされなかったのです。その状況を語るベトナムの代表の言葉は、きわめて客観的で控えめなものでしたが、その事態の不当さへの批判の気持ちは、その言葉を通して、痛いほど分かりました。

 それぐらい、ベトナム戦争は、世界政治の上でも、国連でも、あまり注目されない状況で始まった戦争でした。それが、ベトナム人民の不屈のたたかいが展開されるなかで、日本の民主勢力・平和勢力−−アジア・アフリカ連帯委員会も重要な役割を果たしました−−や世界の運動の広がりがあり、最後の時期には、アメリカ本国でも大きな反戦運動が展開され、反戦デモが大統領官邸のホワイトハウスを取り囲むところまでゆくのですが、戦争が始まった当時の状況は、そういうものでした。

 そして国連は、最後まで、何の役割も果たしませんでした。

 この状況と、イラク戦争をめぐる世界の動きをくらべてみると、世界にどんなに大きな変化が起きているのかが、いちだんとはっきり分かるのではないでしょうか。アメリカが、世界の世論のなかでも、国際政治のなかでも、孤立した形で戦争に入らざるをえなかった、ここに、新しい世紀を迎えた世界の新しい特徴が現れているんだということを、まずしっかりのみ込んでいただきたいと思います。

戦争が終わっても、一国覇権主義の問題は解決していない

 イラク戦争は、なにしろ相手はフセイン政権ですから、アメリカは軍事的には勝ちました。しかし、問題はなに一つ解決されていません。

 だいたい、今度のイラク戦争は、アメリカが、国際的にやってはならないとされている無法行為を、いくつも重ねて強行したものです。さきほど、各国の勝手な戦争というものを許さないのは、国連憲章の平和のルールだということを言いました。アメリカがイラクにたいしてやったのは、まさにその勝手な戦争−−先制攻撃の戦争です。攻撃される危険があるということで、先に手を出して相手をやっつける、これが先制攻撃の戦争で、そんな無法を各国に認めたら、世界は、ルールのない、切り取り勝手自由の戦国時代に逆戻りしてしまいます。だから、国連憲章はそんな戦争を禁止したのですが、アメリカはそれをやってのけました。

 その時、アメリカは、フセイン政権は大量破壊兵器を隠している、それは明りょうな事実だから、その大量破壊兵器からアメリカと世界をまもる道は、戦争しかないのだ、と言いました。しかし、戦争が終わってすでに多くの時間がたちましたが、イラク全土を占領しても、大量破壊兵器は見つかりません。アメリカと一緒になって戦争を始めたイギリス政府は、大量破壊兵器が見つからないことに困ってしまって、「言い方を間違えた」、「別の理由にすればよかった」と嘆いていると、報道されました。

 これは、戦争が終わったら、イラク戦争が、いまの世界のルールのもとでは、やってはならない無法な戦争だったことが、いよいよはっきりしてきた、ということです。

 しかも、世界にとってさらに重要なことは、アメリカの先制攻撃戦略が狙いをつけている相手は、イラクのフセイン政権のような、乱暴な独裁国家だけではない、ということです。アメリカは、先制攻撃戦略の方針について、昨年、国防総省の「核態勢の見直し」報告や「二〇〇二年国防報告」などを発表しました。そこでは、先制攻撃の矛先を向けるべき相手として、イラクのような大量破壊兵器をもつ危険のある国だけでなく、将来、アメリカの軍事的なライバル(競争相手)になる危険のある国もそれに含まれる、ということが明記されています。報告によっては、名指しで「中国」をあげているものもあります。これは、アメリカ一国が世界を支配するのに邪魔になる国はすべて先制攻撃の対象にする、ということにほかなりません。

 アメリカは、こういうことを公式に宣言しているのですから、その一国覇権主義、先制攻撃戦略の危険性は、イラク戦争が終わったからといって、それでなくなるものではないのです。

 一方、イラク戦争に反対した国際的な世論と運動も、また国際政治の場でアメリカの戦争に反対した国ぐにも、イラク戦争だけに反対したのではありません、国際的なルールを破り、ルール違反の戦争を勝手に起こすその無法な行動にたいして、またその無法に世界を従わせようとするアメリカの動きそのものに反対したのです。ですから、冒頭にあげた世界の三つの動きを、イラク戦争の問題に限られた一時的な動きだと見たら、大きな間違いをおかすことになるでしょう。それは決して、あのときだけの一過性の動きではありません。

 アメリカが、国際的なルールを無視する一国覇権主義の態度、行動をとる限り、アメリカのそういうやり方と世界との矛盾は、国際政治の上で必至のものとなります。そこを、新しい時代の特徴としてよく見ることが必要です。

二十一世紀の世界をどう展望するか

 私は、少し前から、二十一世紀とはどんな時代になるか、という問題について、いろいろな角度から考え、話したり書いたりしてきました。そして、二十一世紀の世界を展望したとき、そこには、この世界の動向を左右する三つの大きな流れがある、そして、この三つの流れの働きのなかで、二十一世紀は、体制的にも激動の世紀となるだろう、ということを発言してきました。

二十一世紀の大局を左右する三つの流れ

 そこで問題にした三つの流れとは、次の流れです。

 第一の流れは、長いあいだ、地球の大部分を支配してきた資本主義が、その存続の是非を問われる、たいへん危ないところに来ている、という問題です。

 たとえば、地球環境の問題があります。公害というのは、昔から資本主義につきものでしたが、いま私たちが経験している公害問題は、レベルが違ってきています。地球の上で、人類が生きて存続してゆくその根底の条件をおびやかすところまで来ているのです。

 話せば長くなることですが、ごく簡単にいうと、私たちが地上で生きてゆけるようになるまでには、その環境を整備する長い歴史が必要でした。地球の誕生はいまから四十六億年前、生命の誕生は三十五億年前でしたが、環境条件がととのわないあいだは、海のなかでしか生命は維持できませんでした。現在の大気とかオゾン層とか、いわゆる「生命維持装置」ができて、はじめて生命が地上に上陸し、人間にまで発展したのですが、その「生命維持装置」ができるまでに、三十一億年もかかったのです。

 ところが、資本主義の利潤第一主義の経済活動のために、自然が三十一億年もかけてつくった「生命維持装置」が、大本から崩されはじめている、というのが、地球環境問題です。人類が本当に生き残ることを考えたら、利潤第一主義のこの体制のままでいいのかどうかを考えざるをえない−−二十一世紀の世界は、まさにそういうところまで来ています。

 また、不況・恐慌という問題もあります。マルクスは、百五十年前に、周期的にやってくる恐慌こそは資本主義の命取りだと言いました。資本主義の側では、そこから抜け出そうとする努力もさんざんやってきましたが、抜け出せるどころか、不況・恐慌の病が世界的に深刻になるばかりというのが、実態です。これも、二十一世紀の大問題で、部分部分の欠陥ではなく、資本主義の体制のままでいいのかどうかが世界的に大きく問われる時代を、私たちは明らかに迎えています。

 第二の流れは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの流れです。これは、地球人口の圧倒的な部分が住んでいる地域です。以前は、植民地・従属国として帝国主義大国の支配下におさえこまれて、世界政治の上では発言権をもちませんでした。その国ぐにが二十世紀に政治的独立をかちとって、国連に加盟し、世界政治の上でも大きな役割を果たすようになったのです。

 しかし、経済の面ではどうかというと、多くの国が、貧困になやんでいます。最初は、これらの国ぐにの多くは、政治的独立をかちとったあとは、資本主義の道をすすめば、発展的な未来が開かれるだろうと期待していました。しかし、二十世紀後半の経験は、その期待を完全にくつがえすものでした。「南北格差」と言われます。これらの国ぐには、植民地時代に経済的にさんざん荒らされ、重荷を負わされたのですが、独立したあと、経済的な格差はいよいよ広がり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカが世界の貧困の集中地帯になりつつあります。資本主義の世界には、「南北問題」を解決する意欲も力もないことを、いやというほど経験させられたのが、二十世紀後半でした。

 だから、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸地域には、資本主義は信頼できないとして、資本主義以後の新しい時代、新しい社会を待望する声が、さまざまな形で渦巻いています。それらの声が、社会主義への展望にすぐ結びつくわけではありませんが、ここに、体制変革の展望と結びつく二十一世紀の大きな力の一つがあることは間違いない、と思います。

 第三の流れは、革命によって資本主義から離脱した国ぐににおける流れです。資本主義を離脱して社会主義へという流れは、一九一七年、ロシアの十月革命とともに始まりました。肝心のロシアでは、レーニンの死後、スターリンの時代に大逆転が起き、それがその後の指導部にも引き継がれて、社会主義とは縁もゆかりもない体制−−外にむかっては、干渉と侵略の覇権主義、国内では国民を抑圧する専制主義という体制に落ち込んだなかで、一九九〇年前後に、ソ連・東ヨーロッパの体制的な崩壊にいたりました。

 しかし、ソ連の崩壊は、資本主義から離脱して社会主義へという流れそのものがなくなった、ということではありません。ソ連の失敗からも教訓をくみとって、新しい形で社会主義をめざそうという流れが、一九九〇年代に、中国やベトナムで始まったことは、二十一世紀の世界に大きな影響をおよぼす重要な意義をもちます。

 これらの国ぐにで取り組まれている「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、社会主義をめざす路線としては、まだ第一歩ですが、活力ある経済社会をつくりあげる動きとして、世界の注目の的になっています。その前途で解決すべき多くの問題にぶつかることは、当然予想されますが、中国は人口約十三億、ベトナムも人口八千万、こういう巨大な地域での発展として、それは、二十一世紀に世界が資本主義をのりこえてゆく大きな力の一つとして働くでしょう。

新しい流れは、国際政治の上で、すでに現実の力を発揮しつつある

 これらの流れが、二十一世紀の世界で体制を変革する大きな力として働く、というのは、「世紀」という長い視野と展望で世界を見たとき、はじめて言えることです。

 たとえば、資本主義世界が、体制の存続の是非を問うような深刻な問題にぶつかっているといっても、それぞれの国で、そういう変革の問題が現実に提起されるようになるまでには、まだまだ、情勢が成熟し革新的な主体が成長してゆく多くの時間が必要とされます。しかし、「世紀」という長い視野で見ると、そこまでの大きな変革の条件をふくんだ激動の情勢が展開するというのが、私がこれまで述べてきた「二十一世紀」論でした。

 しかし、二十一世紀に入って二年五カ月、この間の経験は、これらの新しい流れが、国際政治の上で、すでに現実の力を発揮しつつあることを、実証しました。私は、イラク戦争にたいする世界の対応は、そのことを鮮やかにしめした、と思います。

アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の団結

 さきほど、百三十を超える国ぐにが、イラク戦争反対の意思表示をしたことを、世界の変化をあらわす重要な事実の一つとしてあげました。

 そのなかでは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの非同盟諸国の団結した行動が、大きな比重をしめています。これらの国ぐにのなかには、その国がおかれている立場からいって、アメリカの戦争を支持しても不思議でない国が数多く含まれていました。たとえば、アラブ諸国の多くは、湾岸戦争以来、国の防衛のかなりの部分をアメリカに事実上委託し、国内に米軍が駐留している国が数多くあります。アフガニスタン戦争のときには、いろいろ問題はあっても、アメリカの戦争を支持し、自国の軍事利用を認めました。しかし、そういう国ぐにが、今度の戦争では、アメリカのムチとアメの政策に屈せず、戦争反対の立場をまもり抜いたのです。

 そして、非同盟諸国にしても、またイスラム諸国にしても、首脳会議(非同盟諸国)や緊急首脳会議(イスラム諸国)を開いて、一つの統一した力として行動し、そのことによって、自分たちが世界政治の舞台で有力な要因となっていることを実証しました。

中国外交の果たした役割

 また、戦争か平和かをめぐる国際的な闘争において、中国が果たした役割には、重要なものがありました。

 中国の外交というと、中国は社会主義をめざしている国だから、アメリカの無法なやり方には、いちばん強硬な態度をとって当たり前だと思う向きがあるかもしれませんが、実際は、それほど単純ではないのです。

 中国は、いま長期の計画と展望にたった新しい国づくりの真っ最中で、そのために、平和的な国際環境を、世界でもっとも切望している国の一つです。ですから、アメリカとの関係でも、平和と友好の中米関係を確立し、それが長期的な安定した関係となることを、真剣に願い追求しています。

 私が、一九九八年、両党関係の正常化のあと、最初に訪中したときには、クリントン大統領(当時)が訪中した直後で、中米両国間で「戦略的パートナーシップ」、つまり戦略的な長い見通しをもった協調関係をはじめて確立できた、と言って、たいへん喜んでいるところでした。

 しかし、そういう強い願いを持ちながらも、国際的な道理を破る行動にたいしては、それが誰であろうと、無法は絶対に認めないという原理原則を、同時にしっかりと持っています。ですから、一つ一つの国際問題、とくにアメリカがかかわる国際問題にたいして、どういう態度をとるかについては、たいへん慎重かつ真剣に検討するのです。

 私は、昨年の八月、四年ぶりの訪中をして、江沢民総書記(当時)と会談しました。この首脳会談にいたるまでに、党や政府の外交責任者と論議を積み重ねました。その中身は、あとで触れるつもりですが、江沢民総書記が、アメリカのイラク攻撃に反対だという中国の態度をはじめて公式に表明したのが、その時の首脳会談の席においてでした。

 そして重要なことは、中国が、そこで表明した態度を最後までつらぬき、従来の枠をこえた積極的な外交活動を展開したことです。

 その一例ですが、昨年十一月、国連安保理が、イラクに全面的な査察を求める決議を採択したことがあります。アメリカ側は、この決議を、国連の決定を待たないで、攻撃に踏み切る契機に利用しようとする画策をめぐらせていましたが、その時、フランス、ロシア、中国という三つの常任理事国が、この決議の実行過程にいろいろな問題が生まれた時、事態を判断するのは安保理であって、いかなる国の単独行動も許されないとする共同声明を発表して、アメリカ側のたくらみにとどめを刺したのです。

 この声明に、日本のマスコミはどこも注目しませんでしたが、私たちは、その重要な意義を重視して、「しんぶん赤旗」では一面トップで報道しました。常任理事国の共同声明も異例でしたし、中国が従来の外交行動の枠から踏みだした積極行動だという点も注目されたのです。

 実は、その直後に、党の代表がフランス大使館を訪問して、フランスが参加したこの共同声明を評価する話をしましたら、大使館側は、その事実を知らなかったうえ、そんなことはありえない、慎重な中国が共同声明に参加するはずはない、と頑張ったというのです。党の代表が事実を示しましたら、首をひねりながら、「では、パリに連絡してみる」と言って別れたのですが、そのあと、党本部にすぐ電話がかかってきました。「パリに問い合わせたら、三国の共同声明は出ていました。あなたがたの情報収集能力に敬意を表します」とのこと。

 長く国連外交で各国の態度を見てきたフランスの外交官が、「そんなことはありえない」というほど、中国は、今度のイラク戦争では、最後まで筋を通し、国連での平和のための共同行動に努力したのでした。

崩れたNATO諸国の共同行動

 それから、NATO(北大西洋条約機構)諸国の共同行動が崩れ、この軍事同盟に参加しているヨーロッパの主要国のあいだに、アメリカの横暴勝手を認めない潮流が、フランスとドイツを先頭に生まれた、ということも、重大な問題でした。こんなことは、ユーゴスラビアにたいする空爆の時にも(一九九九年)、対アフガン戦争の時にも(二〇〇一年)、起きなかったことです。国際法を無視し、国連に背を向けたアメリカの覇権主義が、アメリカが中心となった軍事同盟−−NATO諸国の共同行動を足元から掘り崩すことになったのです。

 しかも、この矛盾は、NATO内部の矛盾にはとどまりませんでした。フランス、ロシア、中国の共同声明にもすでに現れていたことですが、この流れは、一方では、中国やロシアと手を結び、他方では、非同盟諸国とも連携をとり、アメリカの覇権主義に反対する事実上の共同戦線を、国連を舞台にして展開し、アメリカを少数派の立場に追い込んだのです。

 アメリカの覇権主義の政策は、アメリカ資本主義の強さを示すものでは決してありません。長い目で見てアメリカを政治的に孤立させ、自身の国際的地盤を弱めるという現実を目の前にしながら、国際的道理に背をむけた覇権主義の政策に固執し続けるということ自体、アメリカ資本主義の危機の現れであり、その政策と行動は、世界資本主義全体の矛盾をさらに大きいものにせざるをえません。ここには、そのことが端的に示されています。

 このように、イラク戦争にたいして世界各国がとった態度と行動を見るだけでも、二十一世紀を迎えた世界の新しい特徴が、そこに現れていることが分かります。

平和の国際秩序をめざす闘争

 これまでの話のなかで、アメリカの覇権主義の問題は、イラク戦争の問題だけにとどまる問題ではない、ということを述べてきました。

 いまイラクでは、戦争に勝った勢いで、ここを自分の事実上の植民地にしようというアメリカの動きがあり、それに反対して、イラク国民自身による政治体制と国連中心の復興を求める動きが世界中にあります。

 また、イラクで大量破壊兵器が見つからないからと言って、新しい攻撃の相手を世界のほかの国に求めようとするアメリカの企てもあります。アメリカの先制攻撃戦略というのは、自分の利益にそむくものはすべて攻撃目標だという戦略ですから、将来的に見れば、それがどこまで広がるか分かりません。

 そういう性格をもったアメリカの一国覇権主義とのたたかいは、二十一世紀における世界平和のための活動にとって、とりわけ重大な課題として提起されています。

覇権主義反対−−「二つの国際秩序の闘争」

 アメリカの一国覇権主義に反対する闘争というものは、アメリカがここを先制攻撃しようとしている、だからその戦争に反対するという、一つ一つの侵略や無法に反対する闘争にとどまらない、より積極的な性格をもっています。それは、イラク戦争に反対する世界的なたたかいのなかで、すでに鮮明になってきたことですが、「平和の国際秩序をまもる」という旗印をかかげた闘争だ、ということです。

 「平和の国際秩序」というのは、五十八年前の国連創立のときに、国連憲章で定められたものでした。どの国にも、他国を侵略する戦争や、先制攻撃の戦争は許されない、ある国が戦争行動をとる権利をもつのは、侵略を受けた時の自衛の行動(個別的および集団的な自衛)と、世界平和のため安保理事会が決定した軍事行動に参加する時だけだ−−これが、国連憲章が定めた平和のルールです。

 ところが、アメリカは、それに代わるルールをもちだして、世界に押しつけようとしています。アメリカは、世界唯一の超大国で、世界最大の力をもっているのだから、世界一般のルールはアメリカには当てはまらない、現に存在する国際ルールでも、アメリカの利益にあわないものは認めない、国連憲章が、先制攻撃や植民地支配を禁止していても、アメリカの利益が必要とする場合には、アメリカは、先制攻撃を実施するし、アフガニスタンであれ、イラクであれ、自分の支配下におく権利をもつ−−つまり、一言でいえば、世界はアメリカの横暴勝手に従え、というルールです。

 すでに世界で確立している平和の国際秩序か、アメリカの横暴勝手を世界に押しつける覇権主義の国際秩序か、これが、いま争われているのです。

 今度のイラク戦争をめぐるたたかいでは、戦争に反対した各国の政府と各国の運動が、「イラク戦争反対」の旗とあわせて、「国連憲章のルールをまもれ」、「平和の国際秩序をまもれ」の旗を高くかかげたことが、特徴でした。

 実は、私たちは、三年前の党大会(第二十二回大会)で、「二つの国際秩序の闘争」という見地から、世界を展望して、ここに二十一世紀の大きな闘争課題がある、という見通しを打ち出していました。

 「二十一世紀の世界のあり方として、二つの国際秩序が衝突している。アメリカが横暴をほしいままにする戦争と抑圧の国際秩序か、国連憲章にもとづく平和の国際秩序か−−この選択がいま、人類に問われている」(日本共産党第二十二回大会決議)

 当時は、まだ、アフガニスタン戦争もありませんでした。イラク戦争もありませんでした。私たちは、アメリカが、日本では日米ガイドライン路線を強行し、ヨーロッパでは、NATOの「新戦略概念」の採択を推進する、その動きから、平和の国際秩序を根底からくつがえす危険が進んでいることを見てとったのでした。

 それから、三年、まさにその危険が世界政治のまぎれもない現実となり、その危険を取り除くことが、世界の運動の中心問題になるという状況を、私たちはいま迎えています。

平和の国際秩序をまもる個人・団体・政府の国際的共同を

 さきほど、情勢の特徴を見るために、イラク戦争とベトナム戦争との比較論を話しました。実は、運動の特徴を見るうえでも、この比較論は大事な意味をもってきています。ベトナム戦争当時は、アメリカの侵略戦争に反対し、それとたたかう「反帝国際統一戦線」をきずくというのが、私たちの運動の目標でした。

 私たち日本共産党が、ベトナムに代表団を送ったのは、さきほどお話ししたように、一九六六年三月でしたが、その年の一月には、第一回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯大会がキューバのハバナで開かれて、そこでベトナム侵略に反対する反帝国際統一戦線の旗が高くかかげられました。この大会では、もちろん、みなさんがたの運動(当時はアジア・アフリカ連帯委員会)も大活躍をされました。そのあと、日本共産党代表団は、ベトナム、中国、北朝鮮を訪問して、ハバナ大会の成果も強調しながら、「反帝国際統一戦線」がいかに重要な意義をもつかを訴えたのでした。

 アメリカの覇権主義に反対する現在の闘争には、当時よりももっと広い大きな展望があります。

 目標は、アメリカの覇権主義の政策と行動に反対して、「平和の国際秩序をまもる」、という目標です。

 それから共同すべき戦線の範囲はといえば、平和の国際秩序をまもる意思をもつ「すべての個人・団体・政府の共同」です。

 ここで、「政府」をふくめた「共同」という点が、大事です。ベトナム戦争のときは、政府として問題になるのは、中国やソ連など、当時「社会主義」を名乗っていた国ぐにだけでした。いまは違います。もっともっと広い国ぐにの政府が共同の対象になります。イラク戦争では、現に百三十を超える国ぐにの政府が、戦争反対の意思表示をしたのですから。

 このように、私たちの運動の面でも、大きな変化が起きていますが、この問題は、あとでもう一度触れたいと思います。

日本共産党の野党外交の経験から

 情勢と運動のこうした新しい特徴は、私たちが、この数年来、日本共産党の野党外交として注目される活動のなかで、いろいろ経験してきたことでもあります。

野党外交の起点は一九九九年のマレーシア・シンガポール訪問

 この点で、私自身が、情勢の新しい発展を強く実感したのは、いまから四年前、一九九九年のマレーシア訪問のなかででした。

 この時まで、日本共産党は、マレーシアやシンガポールの政府とは、直接のかかわりをまったく持っていませんでした。ただ一つの交流としては、その十年ほど前に、「赤旗」の記者がシンガポールを取材で訪問して、政府の広報部門を訪ねたことぐらいだったでしょうか。その時、女性の担当官が応対してくれたようですが、日本のあるジャーナリストが、その時の模様をルポ風に書いていたのを、たまたま読みました。応対した女性は、そのあとすぐ知り合いのところに行って、こんな問答を交わした、というのです。「たいへんなことがあった。私は、生まれてはじめて共産主義者に会った」。「どんな人だった」。「普通の人だったわ」。私は、この話を、共産党と党員にたいするこの地域での一般的な見方がよく出ている話だと思って読みました。実際、マレーシアでも事情はほぼ同様だったのです。

 そういう国に、「当たって砕けろ」のつもりで出掛けたのですが、訪問の結果は、文字通り「打てば響く」でした。

 マレーシアでは経済、外務など、政府のいろいろな部門との毎日の交流で、互いに発見をしあいました。私たちの自主独立の立場、いかなる国の覇権主義も認めない立場、反核の立場、アジア諸国の友好重視の立場など、とりあげたほとんどすべての問題で意気投合するのです。

 私たちは、この時、東南アジアにしっかりした平和の流れが生まれていて、それがASEAN(東南アジア諸国連合)の共通の精神となっていることを実感的に知ったのですが、この時の交流は、その後のより深い交流への出発点として、たいへん大きな力を発揮しました。たとえば、私たちの訪問の二年後、二〇〇一年から原水爆禁止世界大会にマレーシア政府代表が参加するようになりました。最近知ったのですが、その推進役をしているのは、私たちが四年前に話し合った外務省の幹部の方だとのことです。また、東南アジアのほかの国にも、日本共産党の紹介を積極的にやってくれています。昨年、タイから、私あてにアジア政党国際会議の招待がきて、緒方さん(国際局長・参院議員)たちに行ってもらったのですが、経緯を聞いてみると、どうもこの招待もマレーシアの推薦によるもののようです。

 いったん門戸が開かれ、信頼関係が生まれたら、そういう活動を親身になってやってくれるんです。

イラク戦争に反対する外交活動のなかで(二〇〇二年)

 昨年の八月は、イラク情勢が緊迫してくるなかで、中国訪問をおこないました。さきほどお話ししたような、中国外交の特徴はよく分かっていましたし、中国側からは、世界と日本の情勢の見方について、意見を交換したい一連の主題が提起されてきていましたから、イラク問題でも、どういう問題、どういう論理を提起してゆけば、相手側の問題意識とかみ合った議論ができるかを、だいぶ考えました。訪問では、江沢民総書記との会談に進む前に、外交問題でも、党の外交責任者(戴秉国中央対外連絡部部長)、政府の外交責任者(唐家セン外相)との会談があり、議論が重層的に積み重ねられてゆきます。

 そこでいちばんかみ合ったのは、一つは、平和の国際秩序をまもるという立場から、アメリカのイラク先制攻撃に反対するという問題です。それに関連して、私がこの闘争の性格を取り上げて、「アメリカのイラク戦争に反対するためには、アメリカ帝国主義反対の旗はいらない、相手が誰であれ、この国際秩序を破るものは、誰をも許さないという道理の旗を立てればよい、この立場でこそ、世界が力をあわせる基盤ができる」という問題の整理をしたときには、どこでも、共感をこめたうなずきの反応がありました。

 こういう議論を積み重ねたなかで、首脳会談でのイラク戦争反対の合意があったのです。

 そのあと、十月に緒方代表団が中東六カ国を歴訪しました。イラクから、フセイン大統領の信任投票への視察団派遣を求める招待があったので、その機会に、イラクに査察の無条件受け入れを求める会談をおこない、また周辺の中東諸国(ヨルダン、エジプト、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦)とイラク戦争問題で話し合おうということで計画したものです。緒方さんは、北京訪問にも同行していたのですが、中東から帰国しての報告を聞くと、北京で提起した論理で話し合うと、中東のどの国でも、それが一致点になった、ということでした。

 また十二月には、志位代表団が、インド、スリランカ、パキスタンと南アジア三カ国を訪問したのですが、ここでも、その問題提起が、イラク戦争の問題での合意の基盤になった、という報告でした。

 そういうことを実際に経験して、私たちは、そこに、現在の世界の状況を反映した客観的な道理があることを、あらためて確認したのです。昨年から今年にかけて、国連で展開された議論も、結局は、平和の国際秩序をまもるのか、それともこれをくつがえすアメリカの無法な戦争行動を認めるのかを、最大の軸にして展開されたわけで、このことも私たちの確認を裏づけるものでした。

日本共産党の野党外交には“反共の壁”がない

 野党外交の経験談の最後に、一つつけくわえておきますと、私たちの野党外交には、どこの国にも、“反共の壁”がない、ということです。

 私が四年前に訪問したマレーシアにしても、昨年、緒方・志位代表団が訪問した中東と南アジアのイスラム諸国にしても、共産党が合法政党だという国はヨルダンだけで、あとはすべて、国内では共産党が禁止され、また存在しない国です。常識的に言えば、“反共”の国です。しかし、私たちは、こういう国ぐにを訪問して、その国の政府と会談し、緊密な交流関係や信頼関係をきずいてきました。これは、私たちにとっても、まったく新しい経験でした。

 たとえば、サウジアラビアという国があります。イスラムの「盟主」とされている国で、王制の国家です。共産主義を否定する立場から、ソ連や中国とも長く国交をもたず、ようやく一九九〇年代はじめに国交をもったという国でした。私たちも、いろいろな機会に接触はしてきたのですが、とても今度の機会に訪問は無理だろうと考えていました。そして、出発前に緒方さんが、「今度中東のこれこれの国を訪問することになった」というあいさつのために、サウジアラビアの大使館を訪ねたのです。そうしたら、会った代理大使が、「なぜわが国へ来ないのか」と質問してきた。そこで話し合って、急きょ、計画を変更、サウジアラビアでも良い会談をやってくることができました。

 それから、パキスタンです。この国の現在の政権は軍事クーデターで生まれた政権です。私たちが大使館と接触をもったのも、一昨年、党の国会議員団がアフガン戦争の調査でパキスタンを訪問して以来のことで、そう長いつきあいがあったわけではないのです。しかし、実際に訪問してみると、十月と十二月に訪問した諸国のなかで、いちばん綿密に日本共産党の研究をして、いちばん真剣にわが党代表団に対応してくれた国の一つだった、とのことです。東京の大使館が、この一年あまりのあいだに、私たちの党のことをよく調べて、本国に報告してあるので、いちいち自己紹介をする必要がないくらいだった、との話でした。

各国の対応の根底には、自主独立の立場への信頼がある

 いままでつきあいのなかったイスラム諸国とのあいだで、どうしてこういう深い交流ができ、信頼と共感の関係がきずけるのか、これはよく聞かれることです。

 それには、いろいろな要因があると思いますが、一つだけあげておきたいのは、どんな大国の横暴も認めない、日本共産党の自主独立の立場とその歴史への信頼が確実にある、ということです。

 あるイスラム国の大使館での話ですが、私たちの代表団が出発する前に、こういう忠告をしてくれたとのことです。“あなたがたが、わが国へ行ったら、次のことは必ず強調してほしい”といって、二つのことをあげました。一つは、ソ連のアフガニスタン侵略に徹底して反対した党だということ。このことを話せば、良い党だということが、すぐ分かってもらえる。もう一つは、中国の「文革」時代に干渉とたたかい、そして現在では、それを解決して中国と良い友好関係をきずいていること。そこまで話せば、信頼できる党だと分かる、という話でした。

 これも、結局は、友好関係の根底には、日本共産党の自主独立の立場への信頼があるということを、示したものでしょう。

提起されているいくつかの問題について

 最後に、世界の平和をめざす国際連帯の活動に取り組むうえで、いま新しく提起されているいくつかの問題について、若干、補足的な点を述べておきたいと思います。

平和の国際秩序の確立の課題について

 国際的な運動課題として、国連憲章にもとづく平和の国際秩序、国際ルールの確立の問題は、世界的な運動のなかでも、世界の政治のなかでも、これからいよいよ大きな意義をもってくるだろうと思います。

 これは、要求の性格としては、なかなか高度な性格をもった課題ですが、イラク戦争に反対するたたかいのなかでは、それが世界の運動の共通の課題になっていることが、すでに事実で示されました。

 国連憲章にもとづく国際秩序の問題が、現実の政治問題としてこれだけ真剣に議論されたというのは、国連の歴史のなかでも初めてのことだと言ってよいのですが、そういう高度な課題が世界の広範な運動の大きな旗印になりつつあるところに、私は一つの人類的な進歩を感じています。

「個人・団体・政府の国際的な共同」という問題

 次に、国際的な共同戦線のあり方、あるいは方向の問題です。

 いままでは、国際連帯といったら、一致するすべての人びととすべての団体の共同ということが、だいたい当たり前の方向とされてきました。しかし、いまでは、すべての個人・団体にくわえて、政府をふくめた国際的な共同という問題が、現実に大きな問題になってきています。

 この点では、日本の平和と連帯の運動が、すでに先駆的な道を開いてきている点が重要です。

 一つは、原水爆禁止運動です。二〇〇〇年の世界大会に、タイとスウェーデンが参加したのが最初ですが、二〇〇一年の世界大会には、開会総会にマレーシア、ジンバブエ、バングラデシュ、南アフリカの政府代表(大使館をふくむ)が参加、二〇〇二年の世界大会には、エジプト、マレーシア、バングラデシュ、南アフリカが参加しました。こうして、平和を願う個人・団体・政府の共同ということは、原水爆禁止運動の新しい良き伝統となりつつあります。

 もう一つは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の活動です。みなさんがたのこの運動は、一九九五年の第十一回非同盟諸国首脳会議に参加して以来、九八年の第十二回首脳会議、今年二〇〇三年二月の第十三回首脳会議と連続して参加し、また二〇〇一年九月には、首脳会議参加諸国の大使館の参加もえて「非同盟国際シンポジウム」を開くなど、非同盟諸国との結びつきを強めてきました。この活動も、先駆的な意味をもつ重要な活動だと思います。

異なる価値観をもつ異なる文明の共存という問題

 三番目には、平和共存という問題に新しい発展がある、という問題です。いままでは、平和共存というと、社会主義と資本主義の平和共存、つまり社会体制が異なる国ぐにの平和的な関係についてのスローガンとされてきました。

 しかし、いま平和共存の問題は、そのことだけにとどまらない意義をもってきています。イスラム諸国との関係を「文明の衝突」としてとらえる議論が一方にありますが、ブッシュ大統領にいたっては、イラク戦争にさいして、千年も前の「十字軍」の話までもちだしました。「十字軍」とは、ヨーロッパ諸国が、十一世紀から十三世紀にかけてイスラム世界にたいして起こした遠征軍のことです。現代の政治問題を「十字軍」にたとえるというのは、まさに中世に起こった「文明の衝突」を再現させようとするものです。

 そこまで野蛮な中世の再現にまでゆかなくても、文明の違いを無視して、アメリカ流、ヨーロッパ流の価値観を一方的に押しつけるやり方が、諸国民の関係を悪化させている実例は、無数に存在しています。

 今日では、平和共存というのは、ただ資本主義と社会主義との関係だけにとどまりません。異なる価値観をもった異なる文明が、たがいの価値観を尊重しながら共存しあう、このことが現在の世界では非常に大事な問題になってきています。

 私たちは、国際テロと報復戦争との悪循環が問題になってきた二〇〇一年秋ごろから、この問題の重要性を痛感し、「文明の共存」を提唱してきました。そのことは、その後のイスラム諸国を訪問しての活動のなかで、いよいよ強く感じていることです。

 今度のイラク戦争反対の運動は、「異なる文明の共存」、「異なる文明の相互理解」という点でも、大きなものを残している、と思います。なにしろ、ヨーロッパの諸国民とイスラム世界の諸国民が、共通の目標、共通のスローガンのもとに立ち上がったのですから。ある人が、“「十字軍」の断絶以後、かつてなかったこと”と表現したそうですが、第一歩ではあっても、たいへん重要な一歩をふみだしたのではないでしょうか。

 このスローガンを実行する場合、イスラム世界について、私どもはまだまだ研究が足りません。イスラムがどういう価値観をもち、どういう基準をもって生活しているのかについても、理解していない点がたくさんありますし、国ごとに制度も努力の内容も違いますが、イスラムの側から、他の文明との共存の努力をどのようにすすめているかなどなど、研究すべき問題は無数にあります。

 こういうこともふくめて、私たちは、平和・民主の勢力が、本当に世界の平和をめざす運動の先頭に立つためには、「異なる文明の共存」という問題でも、しっかりした目標をもって活動する必要がある、と思います。

 以上、ごくおおざっぱに概観しただけですが、国際連帯の問題にいつも直接向かい合って活動されているみなさんです。きょうの講演で提起したことを、みなさんが二十一世紀の世界を見るうえで、また運動に取り組むうえで、何らかの参考にしていただければ、たいへんありがたいと思います。

 これで、終わります。ご清聴、ありがとうございました。


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