2003年5月22日(木)「しんぶん赤旗」
二十一日、衆院政治倫理審査会での松浪健四郎議員の弁明(要旨)は次の通りです。
私は、地元の私設秘書給与、月二十五万円の肩代わりを大阪府貝塚市にある建設会社Aから十カ月受けていた。私の関係者が新人秘書を連れて建設会社Aに当選の御礼あいさつに行った際、その会社の関係者のBさん、Cさんから秘書給与の提供の話があり、その申し入れを受け、その者からの報告で私も了解した。
東京にいた私設秘書を帰阪させ、同秘書が先の関係者とともにあいさつ回りのためにA会社を訪問した際、同社から再度秘書の給与を負担する旨の申し入れがあり、同秘書はその申し入れを受け、私にその旨の報告をしたので事後了解した。一九九七年九月からだ。私もあいさつにA社に行った。A社には同社の関係者で私の選挙を応援したBさん、Cさんがいた。
一九九七年十二月に入って知人から、Cさんはいれずみがあり、暴力団関係者であるらしいと教えられた。私にはその事実を確認する方法がなく、そのうわさが本当か否か分からなかった。しかしA社が反社会的集団に加入している人間と関係があるとすれば、政治家である私はA社からの支援を断ち切るべきであると考え、すぐに給与提供を断りに行った。しかし、すぐには受け入れてもらえず、翌月一九九八年一月、その二番目の秘書も退職するという理由で給与提供が中止された。
最初の秘書は一九九七年三月―七月の五カ月間、二人目の秘書が同年九月―翌年一月の五カ月間、合計二百五十万円をA社から肩代わりしてもらったことになる。
Cさんから電話をもらい(新聞報道によると九八年三月七日)、翌朝(八日)渋谷の喫茶店で会った。上京した支援者と会うのは私の政治家としてのポリシーだ。私にはCさんをうわさ通り暴力団関係者と決め付けることはできなかった。あくまでも選挙区の支援者の一人であった。
彼は大阪府警刑事の名刺を見せ、「事情を聴きたいので協力してほしいと連絡を受けている。どうしたらいいのですか」といわれた。私は「すぐに警察に協力しなさい。電話を刑事にしておくから、後で議員会館に電話してください」といって別れた。まさか指名手配されているなど、私はまったく存じなかった。
議員会館で私は刑事に電話を入れ、「Cさんが私のところにきましたが、何かあったのですか」と聞いた。「談合事件です。Cさんが事情を知っています。連絡があれば事情を聞きたいのでくるように促してほしい」「分かりました。行くように伝えます」という簡単な内容で、わずか数十秒の会話だった。警察の方はCさんが被疑者であると全くいわず、話のニュアンスでは参考人という感じだった。事件の概要についての説明を聞くこともなかった。報道のような「捜査状況を照会」というものではなかったと確信している。
大阪府警に電話してから後、Cさんから電話があった。私は「大阪府警は事情を聞きたいそうです。早く行ったほうがいいですよ」というと、彼は「分かりました」といって電話を切った。新聞報道によるとCさんの逮捕は私が大阪府警と電話してから五日後で、私の電話によって捜査が妨害された事実は客観的にもないことが明白だ。
一九九八年四月末ごろ、私の阪南市後援会役員のHさんから連絡をいただき、阪南市内の小料理屋で会談することになった。その場で私は給与提供分の返却を強く申し入れたが、Cさんは「返さなくていい。今までの話はなかったことにしよう」といい、店員に指示してステンレスの大きなボウルを持ってこさせた。
秘書の給与明細書や雇用関係書類、双方の配達証明書類、その他資料をCさんが突然破いてボウルに入れ、私たちの眼前でライターで火をつけ焼却した。Cさんは「これで先生とは今後一切付き合いません。会っても私に声をかけるな」といっていた。Cさんは私に怒っているなと感じた。
以来、政治資金規正法を理解するにつれ、給与の肩代わりは寄付ではないか、そうであれば政治資金収支報告書を修正すべきだと思うようになった。しかし、そうすればCさんとの約束を破ることになり、そのかっとうが続き、心の大きな重荷となっていた。政治家は信用できず自己本位だとCさんに思われれば再びトラブルを招来させる可能性が認められたゆえ、修正報告が取材を受けた後となった。私の一期目の出来事だが、このことが政治不信を増幅させたことに対しても心からおわび申し上げる。