日本共産党

2003年3月3日(月)「しんぶん赤旗」

都知事選への新しい取り組みについて

都知事選勝利めざす党・後援会決起集会での 不破議長の報告(大要)


 日本共産党の不破哲三議長が一日、東京・渋谷公会堂で開かれた「3・1都知事選勝利めざす党・後援会決起集会」でおこなった報告(大要)は次のとおりです。

 みなさん、こんばんは。

 今度の東京都知事選挙で、若林義春東京都委員長を日本共産党公認の候補として擁立する、これは都知事選の歴史のなかでも初めての新しい取り組みです。それだけに、この選挙戦に取り組むにあたって、知事選というものの性格、これまでの歴史、そしてなぜ日本共産党の公認候補を擁立したのか、その情勢の特徴、そういうことをよくつかんで、そのうえで、今回の選挙への構えを意気高く確立することが、非常に重要になってきます。その意味で、きょうは、知事選という問題を、根本から考えてみたいと思います。

「無党派だから得票が増える」は事実に反する

 今度の取り組みは新しい取り組みであるだけに、党の中でも後援会の中でも、いろいろな意見が出てきています。これは、初めてのことをやるわけですから、当たり前だと思います。

 二十一日に候補者を発表した直後の、各地区委員会の様子をまとめた報告を都委員会からいただきました。それをみても、大いに積極的にやろうという意見がある一方で、戸惑いもあります。中には、いったいこれまで都知事選で苦労したことを忘れちゃったんだろうかと、びっくりさせられるような意見もありました。

 たとえば、「党の公認候補では票がとれない。こんなことでは後半戦もめちゃくちゃになる」(笑い)、そういう心配の声がありました。また、「有名な文化人がでるかと思ったら全然当てがはずれた。もうやる気がしない」(笑い)、といったきわめて率直な意見もありました。私は、これらはあまりにも実態をみない意見だと思います。

 それで、まず最初に、これまでの都知事選挙での票の出方と、われわれが東京で共産党として選挙をたたかった場合の票の出方がどうだっただろうか、そのことを事実でみてほしいと思って、表をつくってきました。(別表)

90年代の3回の都知事選は、3回とも「得票の谷」になった

 私たちは九〇年代に、都知事選を三回経験しました。第一回が九一年、畑田重夫さんを候補者としてたたかった二度目の選挙でした。第二回が九五年、候補者は黒木三郎さんでした。第三回が九九年、候補者は三上満さんでした。そして、それぞれの情勢のなかで奮闘しましたが、無党派の候補者を擁立しての都知事選というのは、はっきりいって、東京におけるわが党や民主陣営の選挙のなかで「得票の谷」だったのです。

 九一年の場合ですと、たとえば前の年(一九九〇年)の衆議院選挙で、東京での私たちの得票の合計は七十四万四千六百七十一票でした。しかし翌年の知事選挙では、四十二万一千七百七十五票。その翌年(一九九二年)に参院選挙がありました。東京選挙区では、七十五万六千六百四十七票、比例では四十九万九千七百四十九票。つまり日本共産党という党名をかかげての選挙でとった得票よりも、無党派の候補者を推した知事選の得票は少なかったのです。

 九五年の選挙の場合はどうか。知事選の二年前、一九九三年の衆院選の得票は七十万四千八百六十八票でした。それから知事選挙と同じ年に続いておこなわれた参院選挙では、東京選挙区四十七万五千六百四十七票、比例五十一万九千七百八十二票でした。都知事選の得票は二十八万四千三百八十七票でしたから、この時も知事選が「得票の谷」でした。

 九九年の選挙の場合は、前の年(一九九八年)に参院選がありました。東京選挙区では、八十九万六千八百九十票、比例では百一万七千七百五十票でした。知事選の翌年二〇〇〇年の衆院選では、小選挙区九十万五百一票、比例八十一万七千四十五票。しかし、一九九九年の知事選では、六十六万一千八百八十一票。前回の知事選よりは二倍以上の得票でしたが、やっぱり選挙戦のなかの「谷」だったわけです。

 われわれは、知事選挙で、日本共産党の票にプラスして無党派の人たちの間に手を広げ、得票を大いに伸ばす選挙をやりたいと思って頑張ります。しかし結果は、九〇年代の知事選では、三回とも、日本共産党が政党として東京でとっていた得票よりも、少ない票しか得られなかった、つまり東京の選挙戦のなかの「得票の谷」の域を出なかった。それが、われわれが苦労してやってきた選挙戦の実際の様子だったんです。「共産党プラス無党派」の連合した力を発揮する、これが当然の目標でしたが、得票の実績ではその力は発揮できませんでした。

表

 だから、みなさんはおぼえていると思うのですが、知事選の投票が日曜日にあって、前は翌日開票、いまは真夜中の開票ですが、ともかく月曜日の朝になれば結果が出ます。次の日曜日には後半の区議選、市町村議選が始まりますから、それまでの六日の間に、都知事選の結果をどうみたらいいのか、ここでは得票を後退させたが、そこからどうやって前進するのか、東京全体でもどこの地区でも、苦労して議論をし、元気を取り戻し、体制を立て直して後半戦をたたかう。これが東京の、九〇年代に共通したいっせい地方選挙の実態でした。

 この実態をまったくみないで、「無党派だから得票が増える」、あるいは「公認になったら得票が減る」、そういう思い込みで、今度の私たちの決断をみていただくのは科学的ではない。そのことをまず私は最初に申し上げたいのです。

最近の都知事選の経験を分析してみると…

 次に、東京の選挙ではなぜ知事選が「得票の谷」になるのか。新しい取り組みをやる以上、このことを私たちはちゃんと分析する必要があります。

前半戦が知事選だけというのは全国で東京だけ

 実は、昨年十一月の赤旗まつり「東京躍進のつどい」で、私はこの問題に多少ふれました。こういうことをいったのです。

 「知事選挙と党派の議員選挙とは性格が全く違う選挙です。知事選には、われわれの頑張りのいかんだけでなく、別の政治力学が働きます。知事選に力をつくすのは当然ですが、知事選が思い通りにゆかなかったからといって、それで落胆したり、後半戦をたたかう意欲を失ったりしたら、政党の状況にどんなに躍進の条件が生まれても、その条件をつかむことができないということになってしまいます」

 これは実際、四年前の選挙戦のにがい教訓だったのです。

 あのときは、前半戦では全国どこでも党の躍進でわきました。前半戦は全国では道府県議選があり、大阪、京都、横浜、川崎、名古屋など、政令都市の市議選があります。そこで、四年前は、道府県議選で前回の二百四十六万から四百二十八万票に、得票を74%も増やし、議席も九十八議席から百五十二議席へ、五十四議席も増やしました。日本共産党大勝というので、どの地方のマスコミも書きたてたし、全国が本当にわいたんですね。

 ところが、全国がわいているなかで、東京は議員選挙なしに知事選だけを経験しましたから、それが思わしくなかったということで、はっきりいって冷え込んでいるのです。それから立ちあがるのに、ずいぶん苦労しました。知事選の結果でいうと、前回の二十八万票から六十六万票に二・三倍に増えたわけですから、元気になっていいはずなのですが、推した候補が通らなかった、思ったほど票が出なかったということで、元気がでないという状況がありました。

 私は、「赤旗まつり」では、そういうことを話したあと、「今度の選挙でも、同じことを繰り返してはなりません。二つの選挙の性格の違いを最初からきちんとつかむことが大事であります」とのべました。

 「赤旗まつり」の話は、実はそこでとめたのです。実際に知事選挙をどういう形でたたかうかということは、そのときは努力中で未定でしたから、それ以上はいいませんでした。

 しかしその後、いろいろな長い苦労をしたあげく、選挙一カ月前に公認候補の擁立という決断をしました。そこで、きょうは、なぜ知事選で票が出ないのかという問題について、もう少し、つっこんだ分析をしたいと思います。

 私は、問題は二つあると思います。

 前半戦で議員選挙がなく知事選挙だけ、というのは、全国で東京だけの現象です。知事選をやるところは、前回の場合ですと、十二都道府県ありました。今回は大阪がぬけて、十一都道県になります。そのなかで前半戦、議員の選挙がない、党派の選挙をやらないで知事選だけをやるというところは東京だけなんです。そのことはさきほどいいましたが、それに加えて、知事選でなぜ票が出ないかということについて、私は大きな原因が二つあると思います。

だれがどの陣営の候補者か、周知徹底できないままの選挙

 第一は、選挙の方式の問題です。選挙制度の問題です。

 だいたい、このごろの知事選では、多くの候補者が無所属ででてきます。前回の場合ですと、三上さんも無所属ということになります。いま自民党の国会議員である舛添さんも、鳩山さんも無所属です。明石さんという人は自民党の推薦でしたが、この人も、形は無所属です。もうみんな無所属ででるわけです。そうすると、投票所にいっても、このなかで、どの候補者が日本共産党が推し、革新民主の陣営が推している候補なのかということが、全然わからないんですね。

 選挙中、法定ビラを、みなさん苦労してまきます。この法定ビラには「革新都政をつくる会」という名前はありますが、「つくる会」が推している候補が誰かということは、書いてはいけないのです。だから、ビラをみてもわかりません。「赤旗」では書きますが、それをぬきにしますと、公にその宣伝ができるのは、候補者カーと、確認団体カーのいわゆる宣伝カーです。これは名前を名乗って走れます。しかし、この車は広い東京でたった二台しか動いていません。ですから、いろいろ候補者がいるなかで、誰が革新民主の候補者であるのか、誰が日本共産党が推している候補者であるかということを、周知徹底させる手段がまったくないのです。

 そのうえにハンドマイクの宣伝が禁止された。パンフレットカーも禁止された。そういう選挙を私たちはやらざるをえないわけです。

 この点では、私はこういう経験があるのです。東京は人口千二百万の、日本でもっとも巨大な有権者のいる選挙区ですが、私はいま神奈川に住んでいますけれども、近くに相模原市という五十万都市があります。六年前のこと(一九九七年)ですが、地元が大いに力を入れてとりくんだ市長選挙がありました。私も何回も応援にいって、候補者といっしょに宣伝カーに乗って、市の全域を何回も走りました。

 ところが、この選挙も、無所属候補ばかりが何人もならびました。東京と同じです。ですから、ビラをみても、投票所にいっても、選挙ポスターをみても、誰が革新の候補なのか、わからない状態でした。それだけに、大いに頑張りました。

 投票結果をみてあらためて驚かされました。一番力を入れた市長選挙で、私たちが推した市長候補がとった票は一万八千四百六十四票でした。ところが、そのときに相模原市で、県議の補欠選挙があって、同じ日の投票でした。日本共産党からでているわけですけれども、私は「会」の車にずっと乗っているわけですから、党公認の県議候補者への支援の声をかけたことはなかったのです。

 しかし、票をあけてみましたら、市長候補が一万八千四百六十四票なのに、県議補選の日本共産党候補が三万一千百九十九票。得票率も市長選の10・4%にたいし、県議補選は18・3%。二倍近い得票をえたわけですね。

 なぜかというと、選挙でみんな活気づいて、それで、やはり革新がいいとなって、投票所に行く。補選の方は、党名を書いてありますから、この人なら間違いないということで、共産党の候補者に票を投じる。しかし、その人たちの票が、市長選ではばらばらになるわけで、それが、票のこの開きになって現れたのでした。五十万都市の相模原市でさえ、誰が革新の候補者かということを周知徹底させることは、これだけ難しかった。千二百万の東京で、たった二台の宣伝カーで走りまわって、いったいどれだけ徹底できるだろうか。こういうわけで、私は、この選挙制度に一つの大問題があるということを常々痛感してきました。これが一つです。

政治戦の様相も大きく変化した

 それから、二番目は政治戦の状況が変わっているんですね。

 東京で勝った知事選といいますと、三十六年前、一九六七年の美濃部さん初当選の選挙のときのことを、六〇年代に活動された方は誰でも思い出します。このころの政策論戦では、「東京に青空を」というのが決め手でした。それほど複雑な論戦はいらなかったのですね。大阪では七一年の府知事選挙、今から三十二年前に黒田了一さんという革新知事を当選させました。このときは、「公害知事よさようなら」というのがおもなスローガンでした。巨大な臨海コンビナートづくりなど大阪を公害の街にした自民党知事と、公害の一掃にとりくむ革新知事と、どちらがいいかという論戦でした。

 ところが今の政策論戦というのは、かなり様子が違ってきています。七〇年代から八〇年代、九〇年代と自民党の大型開発中心主義の支配がつよまるなかで、どこの自治体でも財政の破たんがはげしくなっています。自民党がパンクさせたのだから、われわれの責任ではないのですけれども、知事候補を立てる以上、パンクさせた財政のもとで、行政をどう改革し、どういう手だてをとるかということが、政策論戦の中心問題となっています。つまり、自民党政治が破たんしたために、政策論戦自体が、以前よりも難しくなってきたという面があります。

 もうひとつあるのは、無党派という流れが大きくなると、前国会議員とか、これから国会に出たい野心をもった文化人とか、そういう人たちが、みんな無党派候補として知事選に出てくるようになりました。昔だったら、自民党あるいは「オール与党」公認の現職知事と、革新の側に立つ候補の対決が普通の姿だったのですが、最近は、いろいろな流れの「無党派」がいっせいに出て、「無党派」どうしの争いといった様子になってくる。そういうなかでの論戦には、またそれなりの難しさも出てきます。

 それともうひとつは、反共攻撃のはげしさと汚さです。

 東京の石原知事は、都議が質問をやっている最中に、知事席からヤジで共産党攻撃をやるくらいの政治家ですから、こういう勢力との論戦は、その面からもはげしい論戦にならざるをえません。たとえ無党派の候補を立てて知事選をやっても「あれは共産党の手勢だ」とか「出店」だとかいう攻撃をやってくることはまちがいありません。

 候補者は、いやおうなしにそういう情勢のなかでの論戦に耐えて、頼りになる政治家としての力を発揮しなければなりません。そういう点で、候補者としての論戦そのものが、六〇年代、七〇年代にくらべて、はるかに高い政治性がもとめられる段階になってきています。

 そういうことが、これまでの知事選で、共産党と無党派の連合にふさわしい力を発揮するのに苦労してきた大きな二つの問題だったと思います。

 「無党派なら票が出るだろう」とか「石原氏に匹敵するような知名度が高い人が出たらなんとかなるだろう」とか、知名度だけを追う単純な議論は、この現実をみない議論だと思います。

なぜ都知事選は無党派候補、ということになってきたか

 無党派候補をたてての選挙にそういう難しさがあるのなら、なぜこれまで無党派の候補でやってきて公認でやらなかったのか、こういう疑問があるいは出るかもしれません。しかしこれには歴史があるのです。

首長候補は無党派という原則はない――党員首長の活躍

 私たちは、自治体の首長候補は無党派に限るということを、わが党の立場にし、選挙戦の原理原則にしたことは一度もありません。

 実際、全国の革新共同の首長の中には、東京・狛江市の矢野さんをはじめ、最近当選した岩手県・陸前高田の市長さん、秋田県の湯沢の市長さん、それから兵庫県の南光町や福崎町や、黒田庄町の町長さんのように、共産党員の市長、町長さんがたくさんいます。共産党と無党派の連合で、見事当選を勝ち取っている首長さんたちです。現在、市長三人、町長六人、村長一人です。

 これらの自治体では、自治体が、共産党員でなければ乗りきれないような困難にぶつかって、「ぜひに」と推されて党員の候補が共同の候補となって当選した場合が多いのです。

全国には公認候補で「得票の峰」を築いた多くの経験がある(知事選)

 しかし、知事選挙のような大きな選挙ではどうなのか、という疑問もあるでしょう。

 さきほど、前回のいっせい地方選挙では、十二の都道府県で知事選挙をやったと言いました。実はそのうち五県は共産党の公認候補でした。それらの県で公認候補を立てることで得票が少なかったのかというと、実情は違うのです。

 得票率を東京とくらべてみますと、四年前の東京の三上さんの得票率は12・11%でした。ところが五県のなかで、岩手県の公認候補は12・94%、佐賀県は17・51%、大分県は18・56%、島根県は19・85%。公認候補を立てた五県のうち四県までが、東京以上の得票率で、大きな得票をえたのです。

 しかも、これらの県は、共産党の力の比較的弱いところです。たとえば島根は、国政選挙でいうと7%から10%くらい、大分も6%から9%くらいの得票率です。それが、公認候補の知事選挙で、ずっと高い得票率になるのです。

 知事選の得票率が一番高かった島根から言いますと、前の年の参院比例の得票四万四千八百五票、得票率10・5%でした。それが知事選挙になりますと、共産党公認候補で八万六千三百九十九票、19・9%、約二倍です。翌年の衆議院選挙では、三万三千九百五十二票で7・7%。つまり党公認の知事選挙が「得票の谷」ではなしに「峰」になるわけです。

 大分の場合でいいますと、前の年の参院比例が五万八千七百七十九票、9・5%でした。知事選挙が十二万二千六百六十六票で18・6%、ここもほぼ倍ですね。それで翌年の衆議院の比例が四万三千七百十八票で6・6%。やっぱり、「得票の峰」なんです。

 日本共産党の力からいえば、国政選挙で5%とか7%ですから、東京よりはるかに弱い。しかし、そこで公認候補で選挙をたたかって、普段の共産党支持者以外にもどんどん票を広げて、こういう成果をおさめている。

 もちろんこれには、この選挙が一騎打ちに近かったなど、選挙戦の様相のちがいもあります。しかし、少なくともこのことは、たたかい方いかんでは、普段の選挙だったら他の党に投票する人も、日本共産党の公認候補には投票する、得票が倍増しているわけですから、その規模は普段の選挙でわが党が独自にえている得票にも匹敵する、私はこういう経験からも、公認候補か無党派・無所属かということは、絶対不動の境界線にはならないという教訓を、くみ取るべきだと思います。

無党派候補の擁立は共・社共闘のなかで基準とされた

 では東京で、無党派候補での選挙をどうしてずっとやってきたのか。これにはいくつかの歴史があります。

 もともとは、無党派候補を推しての知事選は一九六七年、今から三十六年前の美濃部(亮吉)さんの選挙が最初でした。当時、私たちは、もう亡くなりましたけれども米原昶(いたる)さんという、後で衆院議員になった人を、都知事選の公認候補として発表していました。そのとき、大内兵衛さんという経済学者で社会党系の人が、ぜひ美濃部候補で社会党との共闘をやってもらいたいと、党本部に申し入れにきたのです。きちんと協定を結び、無党派の候補として美濃部さんを立てたい、独自候補を降ろしてこれに協力してくれないかと頼みに来たわけですね。それが、東京での統一戦線の始まりでした。

 これにこたえて、われわれは、政策協定、組織協定を結んで、共産党と社会党が共闘し、民主団体と協力して、統一戦線を組んで選挙をたたかう、「都知事選型の共闘」、東京方式などといわれましたが、日本の選挙では初めてこのやり方を打ち出しました。それが占領下の沖縄の主席公選に広がり、また全国の一つのモデルになって、七〇年代の革新自治体の流れをつくっていきました。これが、いわば革新・無党派の候補をたてての選挙の始まりでした。

 私たちは、その後、全国で社会党といろいろな共闘をやるようになり、選挙の協定を結びました。だいたい当時は、議席からいうと社会党の方がどこでも圧倒的に多いですから、社会党員の候補とか元国会議員など、そういう人を候補にしたいと言ってくる場合が、多くありました。しかし、社会党員を候補者にし、首長にすると、いくら政策協定をやっても、やっぱり社会党の決定に縛られるわけですね。そのことでいろいろ苦い経験をしましたので、われわれは、党派と党派が協定するときに、一つの党の決定に縛られるような候補者では、統一の選挙ができないし、革新自治体の統一性を守れない、それで、革新・無所属の候補者ということを統一の基準の一つにしようということを提案し、実行してきたわけです。

 当時、社会党の“大国主義”といわれましたが、候補者は無党派に限るというこの基準は、社会党が議席が多いことを理由にして統一の基準にそぐわないことを持ちこんでくる、それを抑えるうえで、大事な意義をもったのです。

 美濃部さんが退陣したあと、一九七九年に太田薫さんを候補とした知事選挙をやり、一九八三年に松岡英夫さんを候補とした選挙をやりました。これは社会党を含めた革新共闘でしたが、そのあとで社会党はもう共闘をやらないということを宣言し、そのために八七年の選挙から、社会党は、共産党を含む革新の諸勢力とは分裂した形で選挙をやるようになりました。

なぜ、社会党の脱落後も無党派候補でたたかってきたか

 しかし、八七年以後も私たちは、無党派の人を候補者とするという態度を堅持しました。なぜかといいますと、いままで東京の民主諸団体が政党と協力して統一戦線をつくってきたわけです。それが分裂させられた。社会党は分裂して最初の選挙のときに、社会党の参院議員だった和田(静夫)さんを候補者にしました。しかし、こういうやり方では民主諸団体の団結が守れませんから、われわれは、革新・民主の諸勢力の団結を守る立場で民主団体も推せる無党派の候補者を選ぶという方針をずっと守ってきたのです。それが現在までの状況です。

 私たちはこういう問題を決めるときに、無党派の方が票がとれるとか、党の独自候補だったら票がとれないとか、そういう票の損得勘定でわれわれの態度を決めたことはありませんでした。革新の無党派ということにこだわったのは、革新都政をともに担った民主諸団体の共同を確保する、ここに一番の眼目があったのです。そのなかで、さきほどのべた問題点がだんだん強く出てくるようになったわけですね。

今回、公認候補擁立を決断した理由は……

 それでいよいよ、今回の候補者の選考になりました。相手に石原氏が出てくるとなると、ここでの政治戦というのは、誰が考えても非常に激しいことになる。反共攻撃に対するたたかいも激烈になってくる。そういう政治戦の厳しさ、はげしさを反映して、去年から「つくる会」の場で候補者選定の相談をすすめてきたのですが、率直に言って、この難局を引きうけて、候補者に出ようという人が、なかなかまとまらないわけです。事態がこのまま推移して、この状況をずるずる続けたら、首都の革新・民主の勢力は、いわば、たたかわずして地盤を失うことになるという時点にまできた。そこで、私たちは、そういう状況のときには、日本共産党が、自ら候補者を立てて難局に立ち向かうという決断がどうしても必要だと考えて、田辺さん(都書記長)の報告にあったような決断を行ったわけであります。

 私たちは政党です。ですから、どんな難しい局面でも、それに対して明確な答えを出して、そして方向づける責任があります。先日、ある新聞が地方選挙にあらわれた共産党の「柔軟路線」について大きな記事を書いたことがありました。私たちは、ある場合には、今までだったら予想できなかったようなやり方で広範な団結をつくって、新しい方式で候補者を推すという場合もあります。しかし同時に、いま東京で経験しているような困難にぶつかった場合には、党の公認候補を立て、断固として筋を通して相手に立ち向かう、こういう答えを出す場合もあります。まさに政党としての責任を情勢に応じて、もっとも合理的に果たす、ここに私たちの弾力性とか柔軟性の根本があるわけです。そういう態度で、私たちは今度の公認候補の決定ということを行いました。

新しい条件ひらき地方選全体の躍進の画期に

 ある新聞はこの新しい取り組みを報じて、「挫折」と見出しをつけました。これは、無党派候補の擁立をずっと努力しながら、それが成功しなかったということをとらえての批評だったと思いますが、都民に本当に責任を負う立場、選挙戦全体の取り組みについての私たちの構えととりくみからいえば、これはまったく見当ちがいの批評でした。

 新しい取り組みというのは、これまで「得票の谷」だった知事選挙を、党と民主勢力にとっての「得票の峰」を築く選挙に転換させる、そういう可能性をもった取り組みであります。これは、知事選そのものについても、勝利への新しい条件をひらく転機になると同時に、後半戦を含むいっせい地方選挙全体で、躍進の画期になりうるものです。私たちは、そういう展望と意気込み、構えで前半戦に取り組みたいと思います。

新しい取り組みは、どんな新しい展望を開くか

 なぜこの新しい取り組みが新しい展望を開きうるのか、この問題に進みましょう。

 さきほど私は、今まで無党派候補を擁立してきた中で生まれた二つの問題点についてのべました。われわれが新しい取り組みを打ち出したからといって、前半戦が知事選挙だけだという制約がなくなるわけではありません。しかし、党公認候補を立ててたたかう今度の知事選では、誰が本当に革新民主の期待をになう候補者なのか、有権者がわからなくなるという選挙制度の問題、あるいは政策論戦のさまざまな問題、これらについては新しい展望が確実に開かれます。

「日本共産党」の知名度は抜群

 まず選挙の方式です。若林さんという候補者は、党内では有名です。しかし東京の一千二百万の都民の中では、知名度は広いとはいえません。しかし、日本共産党の知名度は抜群なのです。好きか嫌いかにかかわらず、日本共産党を知らない人はいません。そしてどんな場合でも、日本共産党が革新の立場を貫いて、節を曲げない政党だということも、かなりの人が知っています。ですから、今までの選挙のように、投票所にいって、いろいろな候補者がいるけれど、誰が革新の候補かということが分からないなどといったことは、おこらないと思います。日本共産党と書いてある候補者を探せば、誰でもみつかります。

 それから、これまでの難点だった法定ビラなどで訴えるわれわれの主張や訴えを革新の候補者に結びつけるという問題――選挙制度の一番の問題点の一つだったこの点も、新しい取り組みでは確実に打開できるはずです。

 それからまた、前半戦に議員選挙があるわけではありませんが、後半戦の区議選挙や市議選挙、町・村議選挙の準備と活動、これは前半戦のなかで全党でやられるでしょう。この党派選挙への取り組みと、並行して知事選挙が行われるわけですから、今度の場合には、この力がただちに知事選挙の力になることは間違いありません。

 私たちはこれまで、共産党への支持と無党派の中での広がりとを結びつけて選挙戦をたたかうことを願っていましたが、さきほど詳しくみたように、実際には共産党の支持票そのものもまとめきれないという恨みがありました。しかし、今度は共産党支持票をしっかりまとめ、広げながら、それに加えて無党派の人びとのあいだにどんどん支持を広げてゆき、知事選挙で大きな広がりをつくる。こういう面でも共産党プラス無党派の力を大いに発揮できる選挙戦に新しく踏み出す、こういう新しい取り組みになることは、努力いかんで間違いなくできることだと思います。

石原知事の反都民・反平和の政策に反対をつらぬいた唯一の政党

 それから第二の点、政策論争ではどうでしょう。日本共産党は石原都政の反都民、反福祉、反平和の路線に反対し、都民の立場に立った道理ある態度を一貫して貫いてきた、東京の唯一の政党です。だからこそ、都政の舞台で奮闘してきた実績に立って、公認候補を擁立できるのです。

 いま、他党の間でも候補者を擁立しようという動きがいろいろあるようです。しかし、たとえ国政では野党でも、都政では野党だという実績はどの党ももっていません。事実上の「オール与党」です。これにたいして私たちは、都議会で石原都政と四年間対決してきた実績を踏まえ、また、財政困難の中でも都民の利益に立った政策を石原都政に対置して提案・推進してきた実績に照らしても、政策論戦を行いうる十分な立場をもっています。

石原都政へのわが党の態度の注意点

 ここで私は、石原都政にたいするわが党の態度をつかむ上で注意していただきたい点を一言のべておきたいと思います。

 われわれは石原都政の反都民、反平和の政策にたいして断固反対を貫いてきました。しかしこれは、相手がタカ派の政治家だから、はじめから“石原氏のやることには、何でも反対だ”という態度で反対してきたものではないのです。石原氏自身の都知事としての行動と実績に照らして、都議会で一つひとつきちんと吟味しながら、反対すべきものには断固反対するという態度をとってきたのです。このことを、よく頭にいれておいてほしいと思います。

 実際、石原氏が当選したとき、もう開票日の翌日の表明になっていましたが、私は記者会見で、次の二つのことを言いました。

 第一の点は、「石原氏は特定の政治的立場をとっている人物だから、この立場を都政に持ちこむことは大いに警戒する」ということです。

 みなさん、覚えておられるでしょうが、彼は自分のタカ派的立場を選挙戦の中ではほとんど明らかにしませんでした。選挙中に言ったのは「石原裕次郎の兄です」ということと、それから石原軍団総動員で選挙をやるだけでした。タカ派のそぶりをほとんど見せませんでした。

 しかし、こういう人物だから、その特定の政治的立場を都政に持ちこむことにたいしては警戒し、反対するということを、まず第一にはっきり言ったのです。

 第二の点は、都政そのものについてです。選挙戦の中で石原氏は、中小企業の債権市場を作るなどの部分的なこと以外、都政についてはほとんどものを言いませんでした。彼は、テレビの論戦が盛んだったころには立候補を表明せず、論戦が終わるころ、「後出しジャンケン」と言われましたが、立候補を表明して、人気で勝負をつけるという作戦をとり、結局、都政論はほとんど展開しませんでした。

 だから、私は、「彼がいかなる都政をやるのかをよく見定め、われわれの政策と都民にたいする公約、都民の利益を守る立場からきちんと対処したい」とのべました。

 つまり、タカ派の路線を都政に持ちこむことを警戒するとともに、そういう路線を都政に持ちこむ場合は反対する。石原氏が都政そのものについて何も明らかにしていないという状況のもとで、彼が何をやるかを一つひとつ吟味し、賛成か反対かを決める。この二つのことを、私は石原氏の当選が決まった晩に、記者会見で党の態度として言明したのです。

 その後、私たちは石原氏がやってきたこと、政策や言明を一つひとつ吟味しながら、それにたいする態度を明らかにしてきました。たとえば、首都機能移転に反対する問題では、私は東京の体育館の石原知事が主催した集会に出かけて、同じ演壇にたちました。それからまた、銀行の外形標準課税については、都議団のみなさんが積極的に賛成しました。ディーゼル車の公害規制についても、われわれは以前から同じ立場をとっていましたから賛成しました。

 しかし、賛成できるものは大きな問題ではだいたいそれぐらいだったようです。あとはさきほどから言われているような極論と冷酷な政治を平然と押しつけるやり方が、残りの部分をほとんど支配しました。

 二月八日の武道館で紹介しましたが、この四年間で福祉予算を三百三十億円も切り捨てるというようなことは、全国どこの自民党知事も、大都市を抱えた地域でやった例がありません。東京では、そういう極端な福祉切り捨てがやられています。切り捨ての中にはシルバーパスもあれば、医療の問題もあります。

 それから、“戦争好き”という問題があります。首都東京を代表する知事が、何を取り上げても“戦争好き”というのでは、東京が世界から誤解されます。

 靖国神社に参拝して、「あれは日本の文化の問題だ」という。そして、過去の戦争や植民地の問題をとりあげれば、「もし日本が強大な軍事国家になって進出しなかったら、いまでも白人の植民地支配が続いていただろう」とか、「朝鮮は朝鮮人が望んだから合併したのであって、植民地にしたわけではない」などと、過去の侵略戦争と植民地支配を平気で正当化する、石原氏の“戦争好き”は過去にまでさかのぼるのです。

 北朝鮮の拉致問題があれば、解決するために北朝鮮と戦争したらいいと語り、アメリカのイラク攻撃が目前にせまれば、「日本はアメリカの行動を容認すべきだ」と言う。こうして世界の平和に逆らっている人物をこのまま日本の首都東京の代表者にしておいていいのか、これが四年間の実績で問われているというのが大問題であります。

 日本共産党は、これにたいして都議会で断固としてたたかってきた政党だからこそ、都民にたいするその責任をふまえた公認候補を擁立するわけであります。

若林都委員長――都議団と一体で先頭にたってきた政治家

 あとでごあいさつがあると思いますが、私からも候補者について一言のべたいと思います。

 若林さんは、石原氏が知事になるよりも先に、東京都委員会の責任者になった人です(笑い)。ですから、この四年間、わが党の都議団が都議会で石原都政に立ち向かうそのすべてについて、一体になってこれをバックアップし、たたかい、援助してきた都委員長であります。ですから、どんな論戦になろうと、論戦の成り行きを心配しながら見るということは、今度はないだろうということを、私は確信しております。(笑い、拍手)

「谷」を「峰」に転換する大きな展望がひらける

 そういう意味で、私たちが日本共産党支持の票を固め広げながら、無党派の人たちのあいだにも大いに手をのばしていくという活動をやるうえで、この選挙制度のなかでの活動の仕方の問題でも、政治戦の展開のうえでも、新しい条件が開ける、全力をつくせば、これまでずっと「得票の谷」だった知事選挙を「得票の峰」に転換することは十分可能な選挙になる、このことを私は確信しているものであります。

 選挙をやる前から「勝てるか、勝てないか」ということを盛んに議論する傾向が一部にあります。「勝てる候補者だろうか」「勝てない候補者だろうか」と。しかし、私は、これはいわば机の上の議論だと思います。いま一番大事なことは、これまで知事選といえば「得票の谷」だった、これを、新しい条件をつかんで「得票の峰」に転換させる、それを本当にやりきるかどうかということが、まずわが党と後援会の前にある課題です。その転換に成功すれば、勝利への道も開けるし、また後半戦の躍進の条件を築くこともできます。そのことをきっちり押さえて、「谷」から「峰」への転換の選挙をたたかいたい。このことを強く訴えるものであります。

なぜ日本共産党の公認候補として擁立するのか

 もう一つの問題があります。それは、なぜ若林さんを日本共産党の公認候補として擁立するのかということについてです。この点でもいろいろ質問が出ているとうかがいました。

 「なぜ党公認なのか」「『革新都政をつくる会』に推薦依頼してもいいんじゃないか。『つくる会』から候補者を選ぶといいながら、なかなか見つからないから党が決断したのであって、そういう成り行きからいっても当然、『つくる会』が推薦すべきではないか」。そういう疑問もあるようであります。

 この点では、公認候補の利点についてさきほどのべましたから、それは繰り返しません。それに加えて、次のことを考える必要があります。

なぜ「つくる会」の推薦を求めなかったか

 確かに経過の成り行きからすれば、「つくる会」が推すという考えもありえないわけではありません。しかし、「つくる会」に参加している民主諸団体にとって、共産党員の政治家を候補に推すということは、そんなに簡単な問題ではないのです。こういう経過だからといって、今まで「つくる会」に参加していた民主団体に、「君たちがなかなか無党派候補を見つけられないから、いよいよ決断したのだ。だから当然一緒に推してしかるべきだ」ということを一律に求めたりしたら、それはわれわれの戦線に新しい混乱を持ちこむ結果になることは間違いありません。

 かりに「つくる会」の機関で承認が得られたとしても、参加している諸団体は、性格も違えば、成り立ちも違います。そういうところに、“「つくる会」である以上、推薦は当然だ”といって支持を一方的に求めるとしたなら、私は、それはたいへん不適切な、共産党らしからぬ態度になると思います。ですから私たちはこの決断をしたとき、発表の前日に「つくる会」に話して了解を求めましたが、推薦を求めるという態度はとらなかったのです。

「日本共産党と無党派の連合」の大戦略に変わりはない

 しかし、それは、この選挙を共産党だけでやるという方針をとることではありません。

 この選挙の性格は、候補者が党の公認候補であっても、掲げる政策は、都民の立場で都政を改革する政策です。都民が暮らしやすい都政への転換をはかると同時に、首都・東京にふさわしい平和の方向を世界に発信できる、そういう改革を実行しようという政策です。ですから、選挙の性格からいえば、日本共産党という政党への支持を都民に求める選挙ではないのです。

 石原知事の反都民、反平和の立場に反対し、都民の利益第一の政策を掲げ、広範な都民に支持と共同を呼びかけるというたたかい、この基本に変わりはありません。また、日本共産党と無党派の連合でそれを実現しようという大方針、大戦略にも変わりはありません。ただ、その具体化については、候補者がわが党の公認候補であり、東京都の委員長であるという新しい状況に応じて、それにふさわしい具体化の方途も考える必要があるという問題です。

まず党が選挙母体としての責任をはたしてこそ

 私は、この点では二つの点が大事だと思います。

 第一は、党員候補を立てる以上、日本共産党が選挙母体としての責任を果たすことです。党員、後援会員、党支持者が総決起してその責任を果たしてこそ、広範な団体、個人に、条件に応じての支援や支持を呼びかけることもできます。その役割、その責任を日本共産党と後援会が率先して果たそうではないか、というのが第一の点です。

革新・民主の団体、個人とは、多様な連携の方法を探究したい

 第二には、革新の立場に立つ団体や個人とは、それぞれの状況に応じての多様な連携の方法を、お互いに探究しようというのが私たちの考えです。

 連携の方式はいろいろありえます。推薦する方式、支持する方式、あるいは、若林候補が発表する政策公約を支持する立場を、それぞれの団体の掲げている政策に照らして表明するという方式もあるでしょう。まだ相手が決まりませんから、選挙戦の様相は定まらず、若林さんがただ一人わが道を進んでいるという状況になっていますが、やがては対決の様相も決まるでしょう。

 そういうなかで、都民の声を代表し、革新・民主の声を代表する若林さんと、石原都政のこれまでの反都民、反平和の立場を代表する候補と、この対決が知事選の軸となることは間違いないし、その対決の中ですべての都民がどちらの側につくかが求められるものです。そういう状況と展望のなかで、それぞれの団体にとって適切で可能な協力・提携の仕方を探究しようではないか、こういうやり方で日本共産党と無党派の連合を、新しい形で具体化したいと考えています。

新しい形態での選挙戦のいくつかの特徴点について

 そういう内容で選挙戦を取り組む場合、いくつかの新しい問題を考える必要があると思います。少なくとも私は、次の四つの点はぜひ考えてほしいと思っています。

前半戦と後半戦を統一的にたたかえる

 第一は、前半戦と後半戦を統一的にたたかえる条件が生まれるということです。

 これまでは後半戦は党派の選挙、前半戦は革新の連合の選挙ですから、前半戦をたたかっている間は、後半戦はなかば凍結状態になるということもしばしばありました。しかし、こんどは知事候補も共産党公認の候補ですから、共産党の役割を訴え、その政策を語る点では共通です。大いに統一的にたたかいやすい条件が生まれています。

 しかし、これを機械的に考えて、前半戦も後半戦もいっしょだから、「区議はだれそれ、知事は若林」、あるいは「知事は若林、市議はだれそれ」という形で単純に走ったらいいのかというと、そうはいかないのです。

 やはり、前半戦の選挙では、石原知事の反都民、反平和の政策に反対して、それこそいろいろな党派を支持する広範な人たちを、どうわれわれの戦線にむすびつけていくか、これがわれわれの大きな課題です。

 前半戦は、“いまの都政を変えたい”、“都民の声の生きる都政を”と願うすべての人たちの声を、党派をこえて結集できる選挙です。そして、ここで大胆に広く、対話と交流と結びつきを広げることは、後半戦での躍進の条件をつくりだすことに必ず結びつきます。

 そういう点で、前半戦で広い働きかけと取り組みを大胆に思いきってやりながら、その成果を後半戦の前進に結びつけてゆくことが大事だということを強調したいと思います。

タテ線後援会の新しい任務と役割

 二番目に目を向けてほしいのは、タテ線後援会の問題です。

 実は、これまでは、タテ線後援会というのは、いっせい地方選挙ではいちばん動きにくいという状況がありました。前半戦の知事選挙では、タテ線の団体そのものが動いていますから、わざわざ後援会が動くまでもない。後半戦になりますと、地域ばらばらの選挙ですから、全都的な規模でのタテ線としてはなかなかやりにくい。こういう悩みがあったと思います。

 しかし、こんどは違います。タテ線後援会が動いてこそ、その団体のなかにある革新的な力、民主的な力、団体自身の力を知事選挙にむすびつけることができるし、それが活発に動けば動くほど団体そのものが選挙で私たちと協力する条件も広がってくる。そういうことですから、大いにまず前半戦で、タテ線後援会がそれぞれの分野で知恵と力をだして思いきった活動をしてほしい。その活動はかならず、後半の選挙戦をたたかう体制づくりにもなるはずであります。

 この問題は、ある程度は、職場支部の活動にも共通する問題です。職場支部で、職場のなかの仲間をみると、住んでいるところは、どこの区、どこの市、あるいは埼玉、神奈川、千葉に住んでいるなどさまざまでしょう。そのなかで、まず前半戦では知事選挙という大問題のために職場の力を発揮し、そのなかでつかんだ広がりを、後半戦ではそれぞれの地域の党派選挙での候補者支持につなげる。これも、こんどは前半戦と後半戦をつなげるうえで、前よりもずっとやりやすい条件が生まれるはずです。

 こういう点を的確にとらえて、大いに知恵と力をだしていただきたいと思います。

無党派層への思い切った働きかけを

 三番目は、情勢の新しい特徴、取り組みの新しい特徴をつかんで、無党派層への思いきった働きかけをしてほしいという問題です。

 無党派層に働きかけるという場合、これまでは「つくる会」が無党派層に働きかけるという活動でした。しかし今度は、公認候補をたてている日本共産党と後援会が知事選挙で無党派層に働きかけるという活動になります。ですから、前半戦で広げた結びつきの成果、あるいは反共偏見を乗り越えたいろいろな活動の成果は、努力いかんではかならず、後半戦のその他の選挙にも生かせるはずであります。

 この前半戦から、党と後援会が知事選挙を主題にしながら、無党派層に広く働きかける。この条件を生かして、前半戦、後半戦を通じて、思いきって無党派層とむすびつく活動を発展させてもらいたい。これが第三点です。

青年層の結集と活動に創意を発揮しよう

 第四点は、青年層の結集と活動に特別の創意ある努力が重要だという問題です。

 実は、二十一日に記者会見をしたとき、記者のみなさんの反応はどうだったろうかと思って、都議団の事務局にいる方に電話で様子を聞きました。聞くと、その日の朝の一部の新聞に、「若林擁立」という報道が予告的にでていたものですから、記者たちの関心は「共産党はいったい若林公認候補の擁立をどういう立場で説明するのか」と、説明の仕方に集中したというのです。

 その記者会見にでた記者たちに感想を聞いたら、「政党としていさぎよい」「公認という形が正解ですね」「この説明を聞いてすっきりした」などの声が異口同音にかえってきたと聞きました。もちろん、新聞の紙面では、そう簡単に「いさぎよい」なんて書いてはくれません(笑い)。しかし、記者自身の感想を聞くと、そういうことがかえってくる。

 私は、これは、かなり素直な声だったと思います。いまの状況をみると、なかなかでる人がいない。けさの新聞をみても、候補者としては日本共産党・若林都委員長一人が立候補表明という「異例な事態となっている」と書いてありました(笑い)。どの党もだそうとしているけれども、成り行きがまだ不明だ。そういうなかで、日本共産党が決断して公認候補をだした。「つくる会」という流れはあるが、無理にそこに押しつけることをせず、すっきり公認でだして、混乱をさける、この姿勢をみて、「政党としての責任を痛感した行動だ」「いさぎよい行動だ」とうけとる、これはマスコミの声ですが、なかなかいいところをみていると思います。

 私は、日本共産党と若林さんのそういう行動は、若い人たちからみれば、青年の正義感にこたえ、やる気をはげます行動だと確信します。その要素は大きいはずです。そういうところにも着目して、私たちはこの選挙で若い人たちの声を自由闊達(かったつ)に結集する必要があると思っています。

 都委員会でもいろいろな企画があるようですが、一つの形にこだわる必要はないのです。いまの情勢のなかで日本共産党が思いきって石原都政と対決しようとしている、そこに人生の意気を感じる人は誰でもよってきてください、自由なやりかたで応援してほしい、そういう運動を大いに広げる絶好の機会ではないか。そのこともとらえて活動をはじめてほしいと思います。

 以上の四つの点は新しい取り組みに関連して、気のついたごく一部の問題です。新しい取り組みだけに、その他の問題もあるでしょうが、いろいろな分野で大いに創意ある取り組みを期待したいと思います。

前進の新しい諸条件をつかみ、確信を持ってたたかいぬこう

 最後ですが、今度の選挙戦はこれまでの選挙戦とは様相が違います。わが党としても初めての経験です。ですから、知恵をかたむけて解決する必要がある難しい問題も起きてくるかもしれません。まったく新境地が開けて、うれしさと楽しさがいっぱいという場面が次つぎとでてくるかもしれません。ともかく、従来型に安住しないで、知恵と力をつくして、この新しい取り組みを、全党、全後援会が自分のものにし、躍進の新しい波をぜひつくりだしていただきたいと思います。

 もう一度いいますが、これまで「得票の谷」だった知事選を、新しい取り組みのなかで、「得票の峰」に転化させることに成功するならば、そういう活動を発展させるならば、それは二重の意味で、いっせい地方選挙の選挙戦の様相を変えます。

 知事選でも石原陣営に大胆に広く深く切り込んでゆく、新たな展望が開けます。このことを抜きに、有名な人を探せば勝てる候補、そうでなければ勝てない選挙というような見方は、机の上の議論であります。そしてまた、この前半戦での切り込みが広ければ広いほど、「得票の谷」を「得票の峰」に変える、築くその峰が高ければ高いほど、後半戦の党派選挙での躍進の基盤が広がることは間違いありません。

 これまで、前半戦で失望落胆した、それを六日間でなんとか克服して告示までにやっとの思いで後半戦をたたかう体制をつくったという苦い経験は、もう過去のものにしようではありませんか。そして、知事選の新しい取り組みの特徴、そこにふくまれている前進の新しい諸条件をしっかりつかみ、前半戦から後半戦へ確信もってたたかい抜こうではありませんか。

 以上で私の報告を終わるものであります(拍手)。どうもありがとうございました。


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