日本共産党

2003年2月16日(日)「しんぶん赤旗」

国会活動34年の経験から

自民党政治の現状をみる

不破議長、不出馬表明にあたっての記者会見(大要)


 日本共産党の不破哲三議長が十四日、国会内で会見し、記者団の質問にこたえた内容(大要)は次のとおりです。


最初の発言

34年間に18人の総理

写真
記者団の質問にこたえる不破議長(右)=14日、国会

 不破 市田書記局長から説明があったと思いますが、今度のことは、私自身にとっては、前の党大会(第二十二回党大会、二〇〇〇年)で現在の体制をつくった時に、だいたい決まっていたことなんです。党大会で全部の人事が決まったあとの「閉会のあいさつ」で、私はこういう説明をしました。

 「新しい体制のなかで、私自身、党を代表するものの一人としてひきつづき党の活動のあらゆる分野で必要な責任をはたすつもりでありますが、国政のうえでは、志位和夫新委員長が党を代表する役割をはたすことになります」

 こういう立場で今後の活動をやってゆく以上、次の選挙に出ないことは、当然の帰結でした。ですから、候補者の名簿の発表にあたって、私はそのことを提案し、常任幹部会で認めてもらいました。

 中央委員会の議長という仕事は、党の体制のなかで、党活動の全分野に責任をもつものの一人ですから、そういう意味で、今後も活動の全分野に責任をはたしてゆきます。「全分野」というなかには、もちろん国会活動も入ります。私は、今年で当選して三十四年目に入ったところですが、その三十四年間の経験がいまの活動に生きるかぎり、必要な相談には積極的に応じてゆきたい、と思っています。

 三十四年というと結構長くて、対面した総理の数は十八人になりました。そのなかで国会での論戦をしなかったのは、宇野さんと小泉さんですが、どちらも選挙での論戦はやっていますから、論戦した首相は、佐藤栄作氏以来十八人を数えるといってよいでしょう。

 私は、中選挙区で九回、比例代表選挙で二回、あわせて十一回連続当選しましたが、これは、東京、とくに旧東京六区という選挙区のみなさんのご尽力があったればこその連続当選でした。こうして、七〇年代のはじめから、八〇年代、九〇年代、そして二十一世紀の最初の年代と、国会で歴史を経験してきたものとして、やはり一つの感慨があります。

質問にこたえて

 ――出馬しないというのは、世代交代ということか。

 不破 世代交代はずっと進めてきたことです。いまいったように、国政では志位さんが党を代表するということで、私は国会ではわりと静かにしていたでしょう。(笑い)

 私たちは、単純に一律の「定年制」という形をとるつもりはありませんが、長い目で見て党の活動を発展的に進めてゆくうえでは、新しい世代にたえず引き継いでゆくことは、大事な流れです。また、国会の議席でいえば、私は東京の比例代表で現在出ていますから、これは若い人にバトンタッチしてゆくことになります。

国会論戦で政治が動いた時代があった

 ――まだ引退ではないが、三十数年、国会議員として国政にたずさわって印象深かったことについて。

 不破 数えてみると、代表質問を三十二回、予算委員会の総括質問も十九回やってきましたから、印象深いことはいろいろありました。たとえば、田中角栄内閣のときに、日本分析化学研究所の事件がありました(一九七四年)。これは、科学技術庁が後ろだてになってつくった研究所で、アメリカの原子力潜水艦が横須賀や佐世保に入ってくる時の放射能汚染の測定をはじめ、原子力発電所や各地の公害問題の環境調査を一手に引き受けている、“おかみ御用達(ごようたし)”といった状況がありました。ところが、私は、一九七四年一月の国会質問で、この研究所が政府に報告している原潜の放射能汚染調査が四割までねつ造だということを、政府を通じて入手した資料で証明したのです。たいへんな騒ぎになって、これで日本の科学技術行政が一変したと言われましたし、新しい体制ができあがるまで、アメリカの原子力潜水艦が入港できない状態が百八十三日も続きました。これは、ねつ造を告発した当人としても、非常に印象深い事件でした。

 もう一つ言うと、これは福田内閣のときのことですが、千葉県の柏市にあった米軍のロランCという基地の問題を国会で取り上げたことがありました(一九七八年)。基地といっても百八十八ヘクタールの広い野原にアンテナが一本たっているだけの基地でしたが、実は、これがポラリス原子力潜水艦への通信を任務とする基地で、核攻撃の指令もここを通じて出される、ですから、いざという時には、相手側の第一の攻撃目標になる、という危険な施設なのです。世界のどこにも、首都圏のような人口密集地に、ロランCの基地をおかせている国はない。そのことを調べあげて、追及したのです。国会ではいろいろ言い逃れ、最後には福田首相が「調査」を約束して終わったのですが、翌年、基地撤去、あと地は全面返還ということになりました。百八十八ヘクタールですから、たいへん広大な土地で、いま行って見ると、国立がんセンターの第二病院や東大の三つの研究施設、サッカーのJリーグがおこなわれるスタジアム、高校、小学校、住宅、公園など、壮大な街づくりがすすめられています。当時の防衛庁長官は金丸信さんでしたが、ある集まりの席で、「不破さんにあれだけ国会で追及されたら、返還に踏み切るしかなかった」と説明したという話が、あとから聞こえてきました。

 国会での活動のなかには、そういう記憶が無数にあります。

 日本の政治全体の様子について言うと、七〇年代というのは、自民党政治でも、まだ面白いところがありました。党内には、次の総理をめざす人たちがひしめき合って、いまのように、総理のあとが見つからなくて困るなどということはまったくない、逆に、「三角大中福(さんかくだいちゅうふく)」(三木、田中[角]、大平、中曽根、福田の五人が佐藤後継の地位を争ったことを評した言葉)などがはやり言葉になったほど、総理をやりたくてたまらない人が大勢いて、それぞれなりに自分の構想をもって競いあう、といった調子でした。

 国会で追及の質問をしても、面白い議論になるし、国会での議論の結果そのものが、政治をその場で動かすということを、私自身、何度も経験しました。そういう点では、同じ自民党との対決でも、いまとはだいぶ違うわけです。いまの自民党も、そういった面白い対決のできる相手になってほしい、という気持ちはありますよ。

 私自身は、この三年間、国会論戦からは引いていますが、国政の場そのものが、国会論戦の激しい攻防のなかで政治が動いてゆくという実感をなかなか持てない世界になっていますから。

今後の活動について

 ――今後の活動で重視してゆきたい問題は……。

 不破 やはり党活動というのは、国政での活動だけでなく、わが党の場合、二万数千の支部、四千人余の地方議員がいて、国民のみなさんのあいだで日々活動しています。党活動のあらゆる分野で責任をはたす、ということは、そういう活動の全体にかかわってゆくということです。そのなかで、この数年、力をいれてきたものに、外交の分野や理論の分野がありますが、そういうところでは、ひきつづき仕事を進めてゆくつもりです。

首相たる政治家の責任を考える

 ――七〇年代の国会は論戦のしがいがあったとの話だが、昨今の国会では、「無気力国会」とかの批判も出ている。現状の国会についてどう思われるか。改善すべき点は。

 不破 七〇年代に私が相手をした総理は、最初は佐藤栄作氏、続いて、田中角栄氏、三木武夫氏、福田赳夫氏、大平正芳氏、この五人でした。

 そのうち何人かについて、総理としての論戦への対応を紹介すると、まず佐藤首相との最初の論戦は、公明党・創価学会の言論・出版妨害問題をめぐってでした。藤原弘達氏が『創価学会を斬る』という本を出したのだが、学会からの圧力で、書籍の販売機構にのせてくれない、また公明党・学会が全部買い取ってヤミに葬るという工作に出る、自民党の田中幹事長がその口利きを買って出るなどの妨害工作が、大問題になっていた時でした。

 私は、当選して最初の質問で、この問題を取り上げたのですが、野党にかかわる問題を、政府相手にどういう角度から質問するか、これにはずいぶん苦労しました。結局、政府は、たとえ自分自身の行為でなくても、国民の民主的権利が侵されたときには、それを放任することは許されないはずだ、ということと、この言論妨害に政権党の幹事長が口利きの形で加わっていることと、この二点を主な論点にしぼって、政府の責任を追及したのです。この時の論戦で、佐藤首相は、答弁役を他の大臣や官僚には絶対ゆずらず、最後まで全部、自分で引き受け、論戦の行方について、自分で責任をもって取り仕切るという態度をとりました。首相以外で答弁にたったのは、木村官房副長官に私が事実関係をただしたときと、議論のなりゆきから、法制局長官が憲法解釈について述べたときだけです。佐藤氏はおそらく、むずかしい問題だから、別の人の答弁で、議論の筋が自分の枠をはみでることを心配してのことだったと思いますが、完全に自分の責任で最後まで答弁をやった。やはり、あのころの自民党では、首相たるものは、“これは難しい問題だから、法律解釈は別の人に”という逃げの態度はとらなかったですね。

 次の首相の田中角栄氏について言うと、第一次石油ショックの時です(一九七四年)。大企業の“売り惜しみ・買いしめ”による物不足と狂乱的な物価の急騰が日本中の家庭を直撃しました。政府は、緊急に「価格調査官」(いわゆる物価Gメン)を鳴り物入りで設置して、政府をあげて対策にとりかかっているような宣伝をしたのです。ところが、これが全部名前だけの兼任調査官で、実態がないのです。

 私たちは、任命された調査官の一人ひとりに電話して仕事ぶりの聞き取りをやったのですが、自分が任命されたことだけは知っているものの、仕事を現実にやっているという人は一人もいませんでした。私が、その聞き取りの結果を国会に持ち出して、田中首相を追及したところ、首相は参ってしまい、その場で改善を約束、その日のうちに閣議で専任の調査官の設置を決め、論戦の六日後には七十五名の専任調査官を新たに任命、兼任の調査官も三百四十一名から五百三十三名に増やすという措置に踏み切りました。自分たちに失態があるとわかったら、論戦の場で約束し、すみやかに実行する――やはり、首相には、政府の長に立つ者として、それぐらいの自覚は持って国会にのぞんでいたものでした。 また、こういう時でも、質問が終わると、首相自身が「今日はやられた」とか言って質問席に寄ってくる、やりこめられてもそれぐらいのゆとりを持った風情を、多くの首相が示したものでした。

 これは、大平正芳氏などは、私が、松下電器の過重労働について、職場の生々しい話をして対策を求めた時には(一九七九年)、そのあと、別の機会に会ったら、「不破さん、あの話はホントにある話ですか」と真顔で聞いてきました。自分がバックにしている財界の足元で、こんなことが行われているということをはじめて知って、驚いた気持ちが表情にありありと表れていました。

 こういう点では、質問の席と答弁の席とは真向かいに分かれているし、論戦の場以外に付き合う関係はないのですが、政治に責任を負う立場で野党の私たちにたいして、そこでの問題提起に真実があれば、それなりの感動もあれば反応もある、そういう姿が、多少とも見えていたのが、七〇年代の国会でした。

 いわゆる「国会改革」で、官僚ではなく政治家が答弁せよということが問題になりましたが、七〇年代には、“制度”改革がなくても、政府の長たるものは答弁を官僚まかせにはしなかったわけで、問題は“制度”ではなく、とくに政権の座にある政治家が心すべき問題だということを、自分自身の経験から強く思っています。

どの政党が21世紀の将来展望を示しているか

 ――現在の党の課題をどう見るか。

 不破 課題はいくつもあるが、二十一世紀に入って、内政・外交ともに将来的な展望がもっとも求められる時代なのに、それを何一つ示せないのが日本の政府で、そのことが世界中で見すかされている。私たちは、日本の現状の認識と、二十世紀に私たちが踏みかためてきた立場から、二十一世紀の展望のしっかりしたものを持っているという自信があります。未来をひらく党として、そういう大きな方向で広い国民のみなさんからの信頼をどうかちとってゆくか、そこにいちばん大きな課題があることは間違いないと思います。

 党自身の主体の問題でいうと、これは過去二回の党大会で連続して強調したことですが、わが党の構成には世代的な弱点があるのです。二十世紀の最後の二十年ほど、非常に情勢のきびしい時期が続いたなかで、その時期に党に入ってくる若い世代が少なかったために、いろいろな分野で後継者の問題ということを、真剣に考え、取り組んでいます。いま、若い層のあいだに新しい新鮮な形で私たちへの期待や共感が生まれ、広がっていることを実感しています。そういうものを実らせて、小泉さんの社会保障論ではないけれど、二十一世紀に「持続可能な」(笑い)政治勢力として伸びてゆく手だてを、時間のかかる仕事ですが、ひきつづき展開してゆきたい、と思っています。

 ――党綱領の改定に、どういう角度からのぞむか。

 不破 党大会は、規約で「二年または三年のあいだに一回」と定められていますので、今年の十一月までに開くことが、われわれ党中央の義務となっています。その範囲内で、大会準備をおこないます。党綱領の改定の問題は、その準備のなかに入ってきます。

 日本では総選挙の時期が不定ですから、この準備のあいだに総選挙という局面になれば、中央委員会で延期を決定することになりますが、それはそうなった時の話で、いまは、規約の規定どおりに大会の準備にかかってゆきます。

党の「柔軟路線」の根拠は?

 ――不破さんがすすめてきた柔軟路線、それをつくるにいたった考え方や苦労は?

 不破 「柔軟路線」と言われるものの根本は、綱領のなかにあるのですよ。

 私が共産党本部で仕事をするようになったのが一九六四年春。党中央委員会に中央委員候補(現在の准中央委員)という形で入ったのがその年の秋。書記局長として党を代表する立場の一人になったのが一九七〇年でした。そのときも、「柔軟路線」と言われたものです。たとえば、選挙や国会にたいする立場を、私たちが「人民的議会主義」という言葉で特徴づけたのは、その年(一九七〇年)でしたが、“共産党が「議会主義」をとなえるとは”なんて言われました。またその少し前、一九七〇年の日米安保条約の十年の固定期間ぎれが近づいたとき、私たちは「安保条約第一〇条の条項にもとづいて、アメリカへの廃棄通告で合法的に廃棄する」という方針を打ち出したのですが、その時も、アメリカの支配を打ち破るのは革命の仕事ではないか、通告で実現できる話か、などと疑問を出す人も出たりしました。

 私たちの綱領の立場というのは、どんな問題でも、国の主人公である国民多数の合意のもとに、合理的に解決し実行してゆくという展望と方向を、おおもとから定めているものです。その立場で、いろいろな問題の解決策を合理的に探究し、示してゆくと「柔軟路線」といわれるわけです。ですから、私が、党を代表する立場の一人になってから三十年あまりたちますが、どこかの瞬間ににわかに「柔軟路線」を思いついて、ふらっとそこに入り込んだというものではなく、党の綱領が本来持っている路線上の力をずっと発揮してきたものだと言ってよいでしょう。その個々のいきさつについては、今度発表した八十年党史に目を通していただきたい、と思います。

情勢は民主連合政府に近づいているか?

 ――二十一世紀初頭に民主連合政府をつくるといったが、その目標には近づいてきたか。

 不破 党大会では「二十一世紀の早い時期に」という目標を決めたわけで、「二十一世紀初頭」というよりは少し期間は長いのです。七〇年代のはじめ、私がはじめて国会に出たころは「七〇年代のおそくない時期に」と、少し展望を短く区切りすぎましたが、いまはもっと落ち着いた姿勢で展望を打ち出しています。

 その目標の現実性ですが、私は、現在の自民党政治のゆきづまりは、ちょっと異例のものだと思います。世界の主な資本主義国のなかでも、矛盾がこれほど激しくなっているのに無策のままですませている、そのことの危機感を持たず、自分自身の政治の危機に真剣に取り組まない、こういう先送り型ですませている政権というのは、ほとんど例がないと思います。

 さっきも述べたことですが、七〇年代の自民党だったら、こういう事態に直面したら、“それならおれにやらせろ”という政治家が次々出てくる時代だったが、自民党という政党がこれだけ古くなり、それなりの機構も肥大化して、互いに自分で自分をがんじがらめにするような政党になってしまうと、危機的な局面に対応する活力を見いだせない状況に落ち込む。政治がいつごろ変わるかということは、もともと予測不能なものだが、自民党政治の危機は、私たちの予想を超えるような進み方をしており、「二十一世紀の早い時期」という私たちの展望はそうはずれないのではないか、という期待を持っています。

 その転換にそなえるためにも、われわれが政党として着実な仕事をすること、政治戦でも一歩一歩着実に前進し、情勢によって押し返される場合があってもしっかり踏みこたえ、条件を前向きにとらえて前進すること、そして多くの志ある勢力とともに未来をになえる政党に発展するよう、努力をつくしてゆきたい、と思います。いま私たちが力を入れている野党外交も、内容的には、そういう方向への発展の一側面をなすものです。

 政治的な力関係の消長にはジグザグがあるが、自民党政治のゆきづまり、未来ある新しい勢力の発展という流れのなかで、転換の展望ありと考えています。

民主主義革命のこと

 ――三十四年前にくらべたら、革命が近づいている、ということか。

 不破 私がはじめて国会に出た一九七〇年というのは、保守合同(一九五五年)で自民党ができて十五年後、私たちが「五〇年問題」という苦難の時期をぬけだし、党綱領の路線を決めてから九年後という時点でした。自民党は、国の進路を、大企業中心の「高度成長政策」と日米安保条約堅持という方向で打ち出し、私たちは、大企業中心の政治を国民中心の政治に切り替え、安保体制を基地のない非同盟・中立の方向に切り替えるという方向を打ち出しました。当時は、いわばそれぞれの旗をかかげての最初の対決の段階で、高度成長政策の矛盾は公害問題や物価問題などの形で出ていたが、自民党政治の「制度疲労」が問題になるところまでは来ていませんでした。同じ対決でも、三十数年前とくらべると、ずいぶん様相が違っています。

 ――革命とは民主主義革命のことをさしているのか、具体的にはどういうことか。

 不破 国の進路あるいはあり方の切り替えという点では、内容的には、民主連合政府といった方がわかりやすいでしょう。一言でいえば、一つは、日本がアメリカの基地のない、本当の意味での主権国家に変わることで、これは国のあり方としては大変革を意味するでしょう。もう一つは、財界・大企業中心ではなく、国民が主役の民主主義を、言葉だけにとどめず、政治と経済の現実にすることです。この二つの面で、日本の国のあり方を大きく変えてゆくことですね。

 ――大会準備のなかで、綱領の問題では、現時点で党内論議は進んでいるのか。

 不破 段取りからいうと、ある時期までに中央委員会が責任をもって素案をつくり、党大会まで全党討議をやるということになります。私たちの場合、党大会はもっとも大事な会議ですから、全党的な討論雑誌も出して議論しますが、今回も、当然、そういうことも含めて、全党討論をすすめることになるでしょう。


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