2003年1月17日(金)「しんぶん赤旗」
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日本共産党の志位和夫委員長が十六日、国会内での記者会見で『日本共産党の八十年』の発表にあたっておこなった発言は次の通りです。
本日、『日本共産党の八十年』を公表します。わが党は、一九九四年に『日本共産党の七十年』を発表していますが、それからおよそ十年ぶりの党史の発表ということになります。今度の『八十年』の全体の特徴、いくつかの重要な内容上の特徴について、説明したいと思います。
まず、『日本共産党の八十年』の全体にわたる特徴についてのべます。
第一に、わが党は、『日本共産党の五十年』(一九七二年)で、はじめて本格的に党の歴史をまとめたさいに、「歴史のリアリズム」とか、「何ものをも恐れない科学的社会主義の精神」ということを強調しましたが、この精神は、『八十年』でもつらぬかれているということです。
すなわち、『八十年』をまとめるにあたっては、この十年間でわが党が到達した新しい理論的・政治的立場、新しく明らかになった歴史の事実をふまえ、わが党の先駆的で不屈の役割を明らかにするとともに、誤りや制約にたいしては自己分析性を発揮するという精神でのぞみました。
第二に、『八十年』の全体を通じて重視したことは、日本共産党が二十世紀の八十年の歴史のなかでなしとげてきた一つひとつの成果と到達が、二十一世紀の日本と世界の前途を切り開く、大きな力をもっている――「歴史が現在と未来に生きる力をもっている」ということを、浮き彫りにすることでした。
党史というのは、たんに過去の問題ではありません。現在と未来に生きる糧を明らかにすることが何より大切なことです。そういう角度から、党史の全体に光をあて、今日に生かすべき問題を重点的に叙述しているのが、特徴となっています。
第三に、『八十年』の構成では、わが党の歴史について、大づかみに、(1)戦前の歴史(第一章、第二章)、(2)戦後の出発と「五〇年問題」、それを克服した時期(第三章、第四章)、(3)党綱領路線を確立し、それにもとづく発展をかちとった四十数年(第五章から第十章)と、三つの時期に区分して叙述しています。
そのうえで、とくに第三の時期について、六〇年代、七〇年代、八〇年代、九〇年代と、十年ごとの区切りで、それぞれに一つの章をあて、その時期の政治史の特徴と、わが党が果たした役割を明らかにしています。それは、この時期の日本の現実の政治史が、米国追従と大企業優先の自民党政治と、「国民が主人公」への民主的改革をめざす日本共産党との対決を軸にしながら、ほぼ十年を一つの区切りとして激動的に展開し、わが党の活動の発展も、それに対応した特徴をもっているからです。こうした叙述をおこなったことは、『八十年』の新しい特徴となっています。
つぎに内容上の問題について、いくつかの角度からのべます。
まず、戦前のたたかいについてです。
二十世紀の日本の最大の政治的変化は、「天皇主権」の専制政治から、「国民主権」の民主政治への転換にありましたが、この転換をかちとるうえで、戦前のわが党の果たした役割は、「不滅の意義」をもつものでした。『八十年』の第一章、第二章では、そのたたかいの意義が、それを担った先達たちのエピソードもまじえて、生き生きと描かれています。そして、第二章のむすびの部分で、わが党の戦前のたたかいの国民的、国際的意義を総括して、つぎのようにのべています。
「二十世紀の平和と進歩の流れは、戦前の日本においても、日本共産党と多くの民主主義者のたたかいのなかに脈々と流れていました。戦後かちとられた日本の民主主義は、日本社会の発展のなかにその根をもち、そのなかから生みだされてきたものです。ここに、日本共産党の戦前のたたかいの国民的な意義があります。しかも、十五年にわたる戦争が侵略戦争であったという歴然たる事実すら歴代自民党政府がみとめず、二十一世紀になっても、戦争責任がアジア諸国からきびしく問われつづけているなかで、日本共産党の戦前史は、国際的にもかけがえのない意義をもっています。反戦平和をかかげ、たたかいぬいた党だからこそ、アジアの諸国民とほんとうの平和・友好の関係をきずく立場をつらぬけるし、その歴史は、アジアの人びとからの信頼の基盤ともなっているのです」
ここにのべられているように、戦前のわが党のたたかいの意義は、たんなる過去の問題ではないことを強調したいと思います。いま、小泉首相の三度目の靖国神社参拝が国内外の強い批判をよびおこすなど、日本政府がなお侵略戦争への無反省をつづけている状況があります。つまり日本の政治は、戦後半世紀以上たっても、戦前の暗黒政治をクリアしたとはいえない状況があるのです。このもとで、わが党の戦前のたたかいの今日的意義は、とりわけ痛切なものがあります。
またアジア諸国との関係を考えても、多くの犠牲をともないながらも、侵略戦争に反対をつらぬいた党が日本に存在したということが、日本とアジア諸国との心の通った交流と友好の土台となることは、今日私たちが展開している野党外交でも、強く実感されることです。「あの戦争に反対した党が日本にあったことを初めて知って、日本にたいする見方がかわった」という声が、私たちの交流した相手からかえってくることも、この間経験してきたことです。
なお、戦前史にかかわって、『八十年』では、世界史と共産主義運動に大きな影響をあたえたコミンテルン(共産主義インタナショナル)について、これが一九三〇年代にスターリンの覇権主義の道具に変質をとげたこと、スターリンはコミンテルン解散後も、各国の共産主義運動をその支配下におく意図をもって行動したこと、コミンテルンにいた欧州諸党の代表者たちは、コミンテルンを舞台とした弾圧体制に早い時期から組み込まれ、この歴史は戦後、欧州の諸党が自主的な立場を確立できなかった背景の一つとなったことなどを、党史としては初めて、系統的に明らかにしています。
戦後、わが党は、「五〇年問題」などの苦しい試練をへて、自主独立の路線を確立しました。この立場は、今日の党の発展の土台となり、また党の国際活動、外交活動の基礎となって生きています。
『八十年』では、旧ソ連と中国という社会主義を名乗る二つの国からの干渉をうけ、それとたたかいながら、わが党がどのように自主独立の路線を確立し、それを発展させていったのかを、新しい資料もまじえて、深く解明しています。自主独立の路線の確立と発展の歴史的経過のいわば“全体像”を明らかにしたことは、この党史の新しい特徴です。
日本共産党は、ソ連・中国合作の干渉作戦とむすびついて引き起こされた「五〇年問題」を克服するなかで、一九五八年の第七回党大会で、自主独立の路線を確立しました。さらに一九六〇年代、わが党は、旧ソ連、中国から、党そのものの打倒をめざす激しい干渉攻撃をうけましたが、それと正面からたたかって干渉を打ち破り、自主独立の立場をうち固めていきました。この闘争は、ソ連覇権主義との関係では、一九九一年のソ連崩壊という形で、歴史の決着がついたわけですが、『八十年』では、このたたかいを「二十世紀の歴史的偉業」というべき大きな意義をもつたたかいだったとのべています。
自主独立の路線の確立と発展のたたかいも、過去の問題でなく、今日に生きる大きな値打ちをもっています。このたたかいの土台があったからこそ、わが党は、ソ連崩壊という世界的激動にたいしても、覇権主義の巨悪の解体として「歓迎する」という積極的な対応を、たたかいの当事者としての実感をもってすることができました。このたたかいはまた、社会主義の大義を守り、今日、わが党が、二十一世紀の科学的社会主義の展望を堂々と語れる歴史的・理論的根拠ともなりました。
覇権主義との論争を通じて、わが党が、理論的な発展をかちとったということも、随所に書き込まれています。すなわち、このたたかいを通じて、わが党は、マルクスいらいの科学的社会主義の理論を再吟味し、それを創造的に発展させてきました。このことも、二十一世紀に生きる貴重な財産となりました。
この理論的探求は、『自由と民主主義の宣言』(七六年)にもりこまれた、自由と民主主義の本格的発展をいっかんしてめざす立場、市場経済と社会主義の結合という展望など、現在と未来に生きる大きな財産となって実をむすびました。『宣言』を発表した七六年というのは、社会主義と市場経済の結合という問題が、現実の問題としては、世界のどこでもまだ問題となっていない時期です。この時期に、『宣言』では社会主義日本でも、市場経済を活用することを明確にしました。これも、いまふりかえると、たいへん先駆的なものだったと思います。
わが党は自主独立の立場にたって、社会主義を名乗る国々がおかした誤りについても、平和と社会進歩、社会主義の大義にたって、きびしい批判をくわえてきました。ソ連のチェコスロバキア侵略やアフガン侵略、中国の「文化大革命」や天安門事件、北朝鮮の八〇年代以降の数々の国際的無法行為などにたいして、もっともきびしい批判者の立場をつらぬいてきました。これらもまた今日に生きる値打ちをもつものです。
自主独立の立場は、今日、わが党がすすめている野党外交のなかで、新鮮な力を発揮しています。今日とりくんでいる野党外交において、わが党が自主独立をつらぬいてきたことの値打ちが、多くの国の政府との対話でも、評価され、信頼されることも、私たちが体験していることです。
たとえば私が先日訪問した南アジア諸国のなかで、パキスタンは、七九年のソ連のアフガン侵略によって、難民、銃、麻薬などが大量に流入し、大きな被害をうけた国ですが、この国の政府との対話で、わが党がアフガン侵略にきびしく反対した党であることを紹介すると、大きな共感の反応がかえってきました。これは、自主独立の歴史的値打ちが、国際政治の舞台で、今日生きていることを、実感させるものでした。
八十年の党史で、わが党がかちとった最大の成果は、綱領路線の確立と、この路線にもとづく党の発展をかちとっていったことにあります。この問題は、『八十年』で、もっとも力を入れて叙述した内容でした。
つぎのような諸点にも注目して、綱領路線にもとづく四十年余のたたかいが、今日にどう生きているかを、くみとっていただければと思います。
わが党は、綱領的な課題として、アメリカへの従属の打破と、日本の自主性の確立ということをかかげている党です。そういう党として、アメリカの侵略と干渉の政策を、いっかんして科学的に分析し、それにたちむかう戦略を明らかにしてきました。『八十年』ではそのことを詳しく跡づけています。
たとえば第六章では、一九六〇年代前半から七〇年代にいたるアメリカの政策を、「各個撃破政策」と特徴づけ、それへの警戒とたたかいをよびかけたことをのべています。「各個撃破政策」というのは、ソ連などの大国には「緊張緩和」の政策をとりながら、社会主義をめざす小さな国や、民族解放運動を、「各個」に撃破していくというものです。わが党はこの分析のうえにたって、ベトナム侵略に反対する国際統一戦線をよびかけたわけですが、これは大きな力を発揮した分析でした。
また第九章では、九〇年代以降、アメリカが、ソ連崩壊という状況のもとで、一国覇権主義の横暴をエスカレートさせ、ついには国連憲章にもとづく平和秩序を正面から蹂躙(じゅうりん)するところまで、その危険を深刻化させてきたことを、米国政府の具体的行動の分析を通じて明らかにしてきたことを、のべています。
これらの科学的で系統的なアメリカ論は、今日、世界平和のためのたたかいでも、生きた力を発揮するものとなっていると考えます。
『八十年』が、この四十数年間の自民党政治の支配体制について、それが時代をおうごとに、矛盾を深刻なものとし、危機におちいっていることを、歴史的に明らかにしていることも、注目していただきたいと思います。
たとえば経済についてみると、六〇年代から七〇年代前半には、日本経済の「高度成長」がすすみました。それは物価問題、公害問題など、深刻な矛盾を引き起こしましたが、国民のたたかいとあいまって、経済成長が国民生活の一定の向上にむすびついたことも事実でした。
ところが、七〇年代の二度の経済恐慌をへて、八〇年代には、臨調「行革」、「民活」路線などが強行され、社会保障のきりすてなど生活条件の悪化がすすみ、「八〇年代は、日本国民にとって『新しい貧困の十年』」となりました。さらに九〇年代に入って、バブル経済の破たんと、長期不況のもとで、自民党政治の危機と行き詰まりはいちだんと深刻になりました。
こうして『八十年』が、自民党の政治体制の危機の深まりを、歴史的に明らかにしていることも、読み取っていただければと思います。
こうした内外情勢の展開のもとで、わが党は、綱領路線を具体化・発展させる仕事にとりくんできました。
わが党は九〇年代に入って、綱領路線の今日的展開として、「日本改革の提案」をうちだしました。『八十年』の第九章にその内容が詳しくのべられていますが、安保条約廃棄をめざしながら日本外交の民主的転換をかちとること、民主的なルールある経済社会をつくること、「逆立ち財政」の転換をはかることなど、私たちは綱領路線を、九〇年代の情勢とまさにかみあわせて発展させてきました。
これは突然のことでなく、四十年来の綱領路線にもとづく政策的探求の積み重ねのうえに、それを発展させ、集大成させたものでした。『八十年』では、わが党が歴史の節々でおこなった政策的発展の努力のなかで、今日に生きる意義をもっているものを、重点的に明らかにしています。
たとえば、平和と安全保障にかかわっては、「安保条約十条にもとづく『終了』通告によって安保条約を廃棄する展望」をしめしたこと(六九年)、日米軍事同盟からの離脱後の日本が「非同盟諸国運動に積極的に参加し、反帝・平和の連帯を強化する」方針をしめしたこと(七三年)などが、のべられています。
経済政策にかかわっては、七〇年代の経済危機、九〇年代の経済危機にさいして、『日本経済への提言』(七七年)、『新・日本経済への提言』(九四年)を発表し、「大企業への民主的規制」という綱領路線にもとづく政策体系を、豊かに発展させたことなどが、叙述されています。
『八十年』では、日本の政党史と、そのなかでの日本共産党のいっかんした立場、役割についても、歴史的に明らかにしています。
とくにこの四十数年は、政党関係においても、劇的な変動がおこった時期でした。そのなかで、日本共産党がつねに革新の立場をつらぬくとともに、その時々で可能な共同のための努力をいっかんして探求していることが、のべられています。
たとえば六〇年代から七〇年代にかけて、革新自治体の運動が全国に広がり、わが党はこれに積極的にとりくみました。七〇年代には、国政レベルでの革新統一戦線への探求がおこなわれました。八〇年代以降、社会党もふくめて自民党政治の基本路線に吸収された「オール与党」という体制がつくられるという困難な時期でも、「全国革新懇」の運動に代表される無党派の人々との共同のための努力をおこないました。九〇年代に「オール与党」体制に矛盾と亀裂がおこったもとでは、新しい段階での野党共闘の追求をはかってきました。
わが党は、一党一派で日本の政治を変えるという立場にたっていません。つねに、民主的な共同、統一のための努力をおこない、その力で政治を改革するというのが、わが党のいっかんした立場です。もちろんそれは、その努力を妨害するものとのたたかいが必要です。政党関係のなかで、こうしたわが党の立場がつらぬかれていることを、『八十年』から読み取っていただければと思います。
わが党の発展が、政治路線での正確さとともに、草の根での組織活動のいっかんした追求を基礎としていることについても、『八十年』では随所で言及しています。
たとえば六〇年代の時期に、党勢拡大の独自追求、「機関紙中心の党活動」、教育と学習の系統的追求など、今日私たちがとりくんでいる党の組織建設の礎石をきずく方針がつくりあげられたことをのべています。
国民とむすびついた「しんぶん赤旗」の配達・集金の網の目一つとっても、一朝一夕になったことでなく、歴史的につくりあげられたわが党の大きな財産です。
この『八十年』を、日本と世界の政治の根本問題に正面からとりくみ、歴史の促進者としての役割を果たしてきた政党のいっかんした歴史を明らかにした文献として、党員、党支持者はもとより、日本政治史と政党のあり方を考えようという人々に、広く読んでいただくことを、心から願うものです。
一、戦前の日本社会――天皇絶対の専制政治
二、日本共産党の創立――二十世紀の世界史の本流にたって
一、国民が主人公の日本をめざして
二、侵略戦争反対をつらぬいて
三、中国全面侵略と第二次世界大戦
一、敗戦と占領
二、憲法の制定と政治体制の根本的変化
三、アメリカの対日占領政策の転換
四、「民族独立」をかかげた第六回党大会
一、コミンフォルムの論評とスターリンの干渉作戦
二、「五〇年問題」――武装闘争おしつけの干渉と党分裂
三、「五〇年問題」の克服と自主的総括
一、「党章草案」の発表と綱領討論
二、安保改定反対の国民的闘争と統一戦線
三、第八回党大会――日本共産党綱領の決定
一、一九六〇年代の政治戦線と日本共産党
二、六〇年代の党活動の前進
三、二つの大国からの干渉との闘争
一、一九七〇年代の政治戦線と日本共産党
二、七〇年代の世界と日本共産党
三、社会進歩の事業の創造的な探究
一、一九八〇年代の政治状況――反動攻勢の時期
二、ソ連覇権主義の解体と日本共産党
一、一九九〇年代の政党状況の大変動
二、湾岸戦争。つよまるアメリカ一国覇権主義とのたたかい
三、綱領路線の今日的展開――「日本改革」の提案
四、アジア外交の積極的展開
一、二十一世紀の世界と日本
二、党創立八十周年――二十一世紀への展望きずいた歴史と伝統をふまえて