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2019年3月10日(日)

主張

空襲被害者の救済

政府は積年の苦しみに応えよ

 アジア・太平洋戦争末期の1945年3月10日未明、東京・下町地区に約300機の米軍B29爆撃機が大量の焼夷(しょうい)弾を投下しました。一夜で約10万人の命を奪った東京大空襲です。名古屋や大阪も攻撃され、敗戦までに全国約400の市町村が米軍の空襲や艦砲射撃による無差別爆撃を受けました。国が始めた戦争で命を奪われ、重傷を負い、家族を失った民間の被害者に対し、日本政府は謝罪も補償も、実態調査もしていません。国は責任を認め、被害者が抱える心身の苦痛と積年の苦しみに応える救済を急ぐべきです。

国策で危険な状態に

 日本へのアメリカの空襲は国際法違反の無差別爆撃です。同時に、戦時下の日本政府には被害を拡大させた責任があります。大量の犠牲者を生んだ背景に「空襲から逃げるな、火を消せ」と命じた防空法制がありました。政府は都市からの退去を全面禁止する通達を出し、違反者には懲役刑を科しました。戦時刑事特別法は防空を妨害した者の最高刑を死刑としました。戦争を遂行するため、「空襲は怖くない、逃げる必要はない」と虚偽の情報を流して統制しました。

 大阪空襲の被害者が日本政府に謝罪と賠償を求めた訴訟で、大阪地裁と同高裁は判決で、防空法制や情報統制という政府の政策によって国民が危険な状態に置かれた事実を認めました。判決は原告の請求を認めませんでしたが、政府は司法が認定した事実を、真剣に受け止めるべきです。

 戦後74年たっても心身に受けた戦争被害に終わりはありません。戦災孤児は一瞬で肉親を失いました。当時12歳だった男性はおじの家で生活していた3年間、事あるごとに差別され、「生きていることそのものが迷惑で悪いような気持ちだった」と涙しました。戦後10年間、「女中奉公」をした女性は、いつも最後に入る風呂が人のあかで濁り、「泥のようなぬるま湯だった」という、つらく悲しい記憶が消えることはありません。

 障害を負った被害者は、体の不調を抱えて生きてきました。爆弾の破片で左足をひざ下から奪われた女性は、義足をつけた足が痛み、歩くことが困難です。機銃掃射で右腕を奪われた女性は、短くなった腕が原因で首と胸の骨が変形し、その影響で手がしびれ、睡眠障害を併発しました。

 戦後、政府は元軍人・軍属に補償する一方、民間の空襲被害者には「国との雇用関係がない」「戦災は等しく受忍すべきだ」と切り捨て、一切の救済を拒んできました。日本と同じ敗戦国のドイツは軍人と民間人の区別をせず、戦争犠牲者を国が補償しています。フランスやイギリス、イタリア、オーストリア、アメリカも軍人と民間人を平等に扱っています。

子や孫に平和な国を

 空襲被害者は「差別なき補償を」と訴え続けてきました。同じ戦争の被害者を差別し、放置することは、平和主義と基本的人権の尊重を基本原理とする憲法の理念に相いれません。被害者は長年、政府による真摯(しんし)な謝罪と補償を求め、一日も早い法律の制定を願って運動してきました。根底には「子や孫に戦争をしない平和な国を残したい」との強い思いがあります。政府はすべての空襲被害者に向き合い、解決への具体的な行動を起こす時です。


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