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2017年5月3日(水)

シリーズ 沖縄復帰45年

引き継ぐ非暴力のたたかい

辺野古へ集う人々

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 1972年5月15日に沖縄県が本土復帰してからまもなく45年。復帰後も、全国の米軍専用基地の7割が同県に集中する中、名護市辺野古で、戦後初めて日本政府の手で米軍新基地の建設が強行されようとしています。県民はそれぞれの思いを込め、「基地のない平和な沖縄」を願い、辺野古で非暴力のたたかいを続けています。


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(写真)米軍キャンプ・シュワブゲート前で新基地反対を訴える金城武政さん=4月23日、沖縄県名護市辺野古

 辺野古新基地建設に抗議する座り込みが1000日を超えた米軍キャンプ・シュワブのゲート前。辺野古区民の金城武政さん(60)は新基地に反対する地元の代弁者としてここに通い続けています。

米兵に殺され

 1957年から建設工事が始まり59年に完成した米海兵隊キャンプ・シュワブの存在は、金城さんの人生と重なります。

 60年代から70年代、ベトナム戦争と前後して飲み屋が増えてにぎわう一方、米兵たちのけんかが絶えませんでした。「ここからベトナムに死にに行くことが分かっているから、目つきも人格も変わって荒れていましたよ」

 74年10月、金城さんが高校2年生のとき、悲劇が襲います。自宅の一部で開業していたバーで母親が米兵に殺されたのです。

 バーの2階にいた金城さんが弟から聞いて駆けつけると母は頭から血を流して倒れ、床には血のついたコンクリートブロック片が落ちていました。

 「殺すことは普通だと思っている状態。人間じゃなくなるというのはそのとおりです。基地があるから絶対に起こるというのは常に感じていました」。金城さんはやり場のない怒りをぶつけます。

 高校卒業後、本土で働いていた金城さんが辺野古に帰った2004年ごろ、新基地建設に反対する人たちの行動を監視する警備の仕事に就きます。人を物扱いする警備会社に嫌気がさし1年1カ月で辞めました。

声あげ続ける

 新基地に反対する「命を守る会」のおじい、おばあたちの姿に、「戦時中に苦労して、戦後も沖縄を復興させてきた。いい晩年を過ごしてほしいのに、このままでは何のために頑張ってきたのか」。金城さんは「命を守る会」の事務所に出かけ、行動を共にするようになりました。

 辺野古区では、政府が基地建設と引き換えの補償金をほのめかしたことで、声があげにくい状況があります。「でも誰だって基地に反対なんです。僕が声をあげることで辺野古は反対していることを伝えたい」

 新基地にベトナム戦争時代のような活性化を期待する声もあるといいますが、金城さんは「戦場に死にに行くのを歓迎することになる」といいます。

 「平和な国際交流ができる街になってほしい。でも基地がある限りそれはできない。お母さんが犠牲になって、基地と事件との関係性を切り離すことはできないから。もう基地はいらないんだ」

基地で平和はつくれない 「島ぐるみ」に確信

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(写真)自ら書いたボードを掲げ、街頭に立つ儀間昭男さん=4月24日、那覇市

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(写真)抗議船「不屈」から新基地反対の声をあげる金井創さん=4月24日、沖縄県名護市辺野古

戦争知らぬ者

  「戦世の哀(いくさゆぬあわり) 知らん者達(むんぬちゃ)が 辺野古(ひぬく)埋立てて(うたてぃてぃ) 悪事工(あくじたく)り」

 この琉歌を詠んだ那覇市の儀間(ぎま)昭男さん(89)は重い戦争体験を胸に新基地反対を訴え、毎週、街頭に立ち続け、辺野古にも足を運んでいます。

 1945年3月31日、沖縄師範学校本科1年生の儀間さんは学徒隊の「鉄血勤皇隊」に召集されます。

 「野戦築城隊」に配属された儀間さんは司令部のある首里城の周辺で朝から晩まで壕(ごう)を掘り続けました。「米軍の艦砲射撃でまたたくまに大木がなぎ倒され石垣が崩れました。遮蔽(しゃへい)物がないから、作業場へ行くのに命がけでした」

 5月27日、首里から南部の摩文仁(まぶに)へ撤退。道中は「阿鼻(あび)地獄」でした。「折り重なった死体の山。手足がちぎれ、口からウジがうごめいていた」。その後、儀間さんは捕虜となりましたが、同級生約120人のうち生き残ったのは3分の1だけでした。

 儀間さんは本土復帰後も残る米軍基地と、戦争できる国へと進む安倍政権に警鐘を鳴らします。「戦争はむごたらしい。その戦争のための基地は絶対に造らせてはいけない。それが死んでいった友だちの供養になる」と儀間さん。「軍隊があれば必ず訓練する。だから基地を撤去する以外にない」と語ります。

平和的手段で

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(写真)新基地建設工事に抗議するカヌー隊の人たち=4月24日、沖縄県名護市辺野古

 戦後、米軍は県民の土地を「銃剣とブルドーザー」で強制接収し、基地を造りあげました。この土地強奪に対し、伊江島の農民のリーダーだった故・阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんは1950年代から非暴力で抵抗しました。

 会談のときは必ず座る、耳より上に手をあげないといった非暴力のたたかいは60年代の本土復帰闘争や、90年代から続く辺野古のたたかいに受け継がれています。

 「平和をつくるための手段は平和的でなければならない」。辺野古の海で抗議船「不屈」のかじを握る南城市の金井創(はじめ)さん(62)はいいます。

 2007年に辺野古の埋め立てに反対する海上行動を始めたとき、座り込みテントに阿波根さんの遺影を掲げ、非暴力の精神を受け継いでたたかおうと仲間と誓い合いました。

 金井さんのもう一つの柱が「不屈」の精神です。阿波根さんと並び、非暴力のたたかいの象徴である故・瀬長亀次郎さん(沖縄人民党委員長、日本共産党副委員長を歴任)が好んで使っていた言葉です。

 14年9月、名護市で開かれた稲嶺進名護市長と翁長雄志那覇市長(当時・現知事)の街頭演説。「政治的立場の違いを超えて手を握り合う2人に震えるような感動を覚えました」。そのとき、「弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ」という瀬長さんの言葉を思い出し、浮かんだのが「不屈」の2文字。抗議船の名前に決めました。

 金井さんは同年の保守・革新を超えた「オール沖縄」と「島ぐるみ会議」の誕生が辺野古のたたかいに劇的な変化をもたらしたと振り返ります。「次々と県民が立ち上がり、辺野古へくるようになった。本当に変えられると思いました」

あきらめない

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(写真)諸見里直樹さん

 辺野古・大浦湾の海を分断する臨時制限区域を示すフロート(浮具)。「復帰後」世代である、うるま市の諸見里(もろみざと)直樹さん(42)はカヌーに乗り、フロートの外から海上保安庁や工事作業員に工事中止を呼び掛けています。

 15年1月、抗議行動に対する暴力的な強制排除を報道で知り、「何が起きているのか確かめたかった」とカヌーでの抗議行動に加わりました。

 諸見里さんが貫いているのは海保や作業員との対話です。「平和を求めて抗議しているのに、ここでけんかしたら平和でなくなる」。

 忘れられない光景があります。「海を埋め立てないで」。あるとき海中に潜ろうとしていた作業員に声をかけると苦しそうな顔で海面から空を見上げたまま、しばらく動きませんでした。「彼らもウチナンチュ(沖縄県民)なんだ。本当はやりたくないはず」

 「ウチナンチュが自分で決めた方がいいんじゃないですか」。海保の職員に語りかけると、黙ってうなずきました。海保の職員は海で会うと「水、持ってる?」と声をかけてくれるようになりました。

 仕事場でも辺野古の話は敬遠されますが、粘り強く訴え続けます。「基地を止めたいっていうのは当たり前のこと。平和で基地のない普通の沖縄に戻ってほしい」と願い、海に出ます。「僕らにできることは、あきらめないことです」(柳沢哲哉)


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