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2012年9月21日(金)

きょうの潮流

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 「昭和三陸津波」が襲った1933年3月。日本共産党のよびかけにこたえ、医師や看護師が岩手の田老村にかけつけます▼義援金と薬を役場に届け、肺炎などが心配な被災者を診る。その最中に弾圧で逮捕された医師は、渡邊宗治。東京の亀有無産者診療所の所長でした▼ことし、亀有の診療所で渡邊医師の先輩だった人の没後80年にあたります。中島辰猪(たつい)。初代の所長です。藤田廣登著『野葡萄(のぶどう)の蔓(つる)』によれば、彼は1904年大分県生まれ。千葉医科大に学び、母にこう語ったといいます▼「金もうけのため勉強するのではない。病院にもいけないような人を助けるためだ」。彼は、志をつらぬきました。東京・墨田の病院に勤めたあと、大学の先輩の熱心な説得に打たれ、青砥(あおと)無産者診療所へ。1931年に亀有の診療所ができると、所長に▼診療の合間をぬって小作争議や工場のストライキの応援にかけつけ、労働者や農民とすぐに打ち解け、患者にもしたわれる中島医師。次いで、小作争議が盛んな千葉県豊住村(いま成田市)の無産者診療所で働きます。官憲が「共産村」とよぶ村で、弾圧とたたかう人々を励ましました▼しかし、重病にかかり、病院でまともな治療をほどこされないまま、苦しみにのたうちながら強制退院させられます。亀有の診療所に移されますが、手遅れでした。29歳のあまりにも若い死。「水乏しき川辺に立ちて野葡萄の蔓を引きたり故里に来て」。彼の歌です。「野葡萄」の花言葉は「人間愛」といいます。


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