2011年10月13日(木)「しんぶん赤旗」

機銃と津波 刻んだ鉄橋

「恐ろしさ後世に」市民が運動

岩手・宮古市


 東日本大震災の津波によって流された岩手県宮古市のJR山田線の鉄橋には戦争の傷痕が刻まれていました。「津波とともに戦争の恐ろしさを後世に伝えたい」と市民の運動によって、その一部が保存されています。 (武田祐一)


 「いくつも穴が開いているでしょう? 1945年8月10日の宮古空襲の、米軍のグラマン機による機銃掃射の銃弾痕です」と説明するのは「流出した銃弾痕の鉄橋を保存する会」の岩間滋事務局長(64)です。

 市内を流れる閉伊(へい)川河口部に架かっていた山田線の鉄橋は約240メートル。橋桁1本の長さは約23メートルで、10本あるうちの6本が津波で流されてしまいました。

市が保存

 「戦争の恐ろしさを伝えるものとして、これを後世に残さなければと思っていたら津波で流されてしまった。ほうっておいたら鉄くずとして処分されるところでした」と岩間さん。

 同会が宮古市とJRに働きかけ、市が保存することにしました。現在は、津波で壊れたままになっている市民文化会館の前に置かれています。

 保存されているのはJR宮古駅に一番近い橋桁を4分の1に切断したものです。長さ約5・7メートル、重さは5・3トン、厚さ9ミリの鉄板に、13ミリから30ミリほどの穴やへこみが24カ所あります。

空襲3回

 同会の伊藤幸男会長(74)によると、宮古市では3回空襲がありました。8歳のとき、45年7月14日の1回目の爆撃を目撃しましたが周りの人は誰も見ておらず、記録もなかったといいます。

 「それがきっかけで空襲のことを調べはじめたんです。8月の空襲では13人が亡くなりました。分厚い鉄板を貫いた銃弾の痕を見てもらって、戦争は恐ろしいし、やってはいけないものだということを若い人たちに知ってほしい。同時に、この鉄橋を押し流すほどの津波の脅威も後世に伝えたい」と語りました。

 宮古市は現在地で屋外展示する方向で「多くの人に見てもらうために広報していきたい」としています。

 保存する会は、同市の文化財指定を受け、将来的には市に歴史博物館をつくって展示することを要望しています。当面は独自に寄付を募って案内板などの設置をしたいとしています。

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