2011年9月22日(木)「しんぶん赤旗」

「綱領教室」 志位委員長の第7回講義

第3章 世界情勢―20世紀から21世紀へ(2)

自主独立のたたかい追体験


 志位和夫委員長の第7回「綱領教室」は20日、前回につづき綱領の第3章「世界情勢―20世紀から21世紀へ」、第8節の学習に進みました。

 志位さんは最初に、この節で学ぶ「社会主義をめざす流れ」について、第7節で触れた独立・民主・平和にかかわる巨大な進歩とともに、「20世紀の世界の構造を変えるもう一つの重要なできごとになりました」と特徴づけました。第8節に六つある段落(パラグラフ)を一つひとつ区切り、読み上げながら講義を進めました。

20世紀から21世紀へ―ソ連の崩壊が巨大なプラスに

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(写真)講義をする志位和夫委員長=20日、党本部

 まず初めに「社会主義の道に踏み出したソ連をどうみるか」から話に入った志位さん。「レーニンの時代とそれ以降を区分することがとても大事です」とのべました。

 綱領で「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された」(第2段落前半)と記されているレーニン時代のソ連の活動を、歴史をたどって詳しく見ていきました。

 ロシアの十月社会主義革命(1917年)の世界史的意義について、民族自決権や社会権の提起が世界に与えた「持続的影響」を強調するとともに、翌年夏から帝国主義諸国が革命ロシアに大量の軍隊を送った干渉戦争が終結し、レーニンが「資本主義諸国の網の目のなかでわれわれの基本的な国際的な存立をかちとった」(1920年11月)と見定めたことが、試行錯誤から抜け出す契機になったと語りました。

 この「新しい一時期」のレーニンの理論活動の新たな発展を不破哲三さんの著書『レーニンと「資本論」』の表現を借りて「夜明けを迎えた」とのべ、「夜明け」の中身を、(1)「戦時共産主義」から「新経済政策」(ネップ)への移行(2)資本主義国との平和共存(3)革命論における新しいとりくみ(4)スターリンの大国主義との闘争―の4点に整理して、それぞれを解説しました。

 「新経済政策」の確立について志位さんは、干渉戦争の時期にレーニンが導入した「戦時共産主義」が矛盾にぶつかり、悪戦苦闘し、模索するなかで「市場経済を認め、活用しながら社会主義へ前進する」路線を打ち立てたことを紹介。この道は、マルクスやエンゲルスにもなかったまったく新しい探究・挑戦であり、「今日の中国、ベトナムの経済建設、わが党綱領の展望する道ともなる、大きな一歩を残しました」とのべました。

 スターリンの大国主義の横暴に対してレーニンは、病気で倒れ、活動に重大な障害が生まれたあとも、病床から厳しい批判を加え続け、レーニンが口述筆記させた論文にも触れながら「大国主義、覇権主義との闘争は、いま読んでも、胸を打つものがあります」とのべました。

 第2段落後半の、スターリン以降のソ連社会の分析に話を進め、ソ連崩壊(1991年)後、明らかになった資料を踏まえて解明したのが、第20回党大会(94年)の報告だとのべました。

 「新しい点は、旧ソ連社会を経済的土台から解明したことです」。旧ソ連で「社会主義社会建設完了」の指標とされた「農業集団化」が、実は専制主義への変質の転機となったもので、“「新経済政策」の死”を意味したと指摘。「恐怖」によって社会を統治するために、スターリンが開始したのが大量弾圧であり、国民がどんな恐怖、脅しを受けたかを、志位さんの好きなソ連の作曲家、ショスタコービッチの子どもたちの証言も交えて紹介し、ソ連が人間抑圧の社会だったことをあとづけました。

 スターリンの大国主義・覇権主義の誤りが国際政治の舞台でむき出しに現れたものとして、ヒトラー・ドイツとの「秘密議定書」、バルト3国併合、千島列島の占領などをあげました。スターリン死後もその誤りは、チェコスロバキア侵略、アフガニスタン侵略などと引き継がれました。「バルト3国とアフガンは、ソ連崩壊の引き金になりました」と歴史の皮肉を語ります。

 1991年にソ連が崩壊し、世界はどうなったか。日本共産党は、ソ連共産党の解体にさいして発表した常任幹部会声明「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する」で、「世界の平和と社会進歩の勢力にとっても、日本共産党のたたかいにとっても、巨大なプラスをもたらすものである」との立場を表明しました。「今、このときの予見をはるかにこえて、世界が生きいきしてきました」と指摘しました。

 志位さんは、中南米各国の左派政党が参加する「サンパウロ・フォーラム」が、ソ連崩壊をきっかけに、新自由主義ノーの声を上げ、新しい社会主義への展望をかかげるとりくみを紹介。「ソ連が本当になくなってよかった」と感慨を込めて話すと、会場からも共感の拍手がおこりました。

本来の姿よみがえらせ綱領に結実

 第3段落の日本共産党の自主独立のたたかいについて講義をすすめました。「この路線を確立したのは戦後だが、その客観的な条件ともなっている」として、戦前の日本共産党と、レーニンの指導のもとにつくられた国際組織のコミンテルン(共産主義インタナショナル。1919年〜43年)との関係に言及しました。

 日本共産党がコミンテルンに加盟し、関係をもっていた時期は、コミンテルンがさまざまな歪(ゆが)みをもちつつ、比較的健全な時期で、日本の運動への役立つ助言も得たが、その後、スターリンによる大弾圧が37年〜38年にかけてコミンテルンをのみこみ、残った幹部も弾圧体制に組み込まれ、加担者となったと指摘。日本共産党も杉本良吉や山本懸蔵らが犠牲となったが、世界の共産党のなかではその悪影響をもっとも受けなかった党といえると解説しました。

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 「日本共産党の最大の悲劇的な大事件」(宮本顕治元議長)といわれる「50年問題」に話をすすめた志位さん。「1950年、ソ連のスターリンを総司令官、中国共産党を副官として、武装闘争を日本共産党に押しつけようという干渉がおこなわれ、中央の一部がそれに内通・呼応して、党分裂、中央委員会を解体した」のが「50年問題」とズバリ説明しました。

 「大事なポイント」として、国際的背景について、スターリンが戦後ヨーロッパでは覇権主義の足場を固めたものの、アジア方面でほとんど足場がなかったため、49年にスターリンと中国共産党の劉少奇と「分業」体制を秘密裏に確認し、武装闘争路線を日本も含むアジア・太平洋地域に広める動きがあったとのべました。

 党の分裂と武装闘争の押しつけを招いた「50年問題」の経過をのべながら、党を分裂させた党幹部の徳田球一や野坂参三が「北京機関」をつくり、そこから武装闘争路線を流しこんだこと、これと宮本顕治さんらがたたかったことを紹介。そのなかで宮本さんが後年、「私自身のコミンフォルム観は大きく変わらざるを得なかった。自分たちが身をもって日々切り開こうとしている日本共産党のまさに内部問題についての、事情を知らない干渉の不当さというのが、私の到達点だった」とのべた言葉を引いて、志位さんは「ここで覇権主義の正体を見たり! となり、ここから自主独立路線への認識が全党のものになっていった」と強調しました。

 そして、今日のようには「50年問題」の全ぼうが分からないもとで、当時の日本共産党の党員が分派の誤りを明らかにし、たたかった勇気をたたえ、この場から先輩たちに感謝したいと述べると、会場から共感の拍手がわきおこりました。

 党の統一を回復し、自主独立の立場にたった日本共産党はどんな国際活動を展開したか。志位さんが、ソ連との1959年の会談で、日本の政党として初めて南千島返還を要求したと話すと驚きの声も。

 ソ連が部分核停条約(1963年)への賛成を押し付け、党の国会議員だった志賀義雄が国会で白票(賛成票)を投じたときのエピソードを紹介。テレビで見ていた小学生の志位さんは、共産党員の父親から「裏切りはもっとも卑劣な行為だ」といわれた思い出を話しました。

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 ソ連の覇権主義、中国・毛沢東派の干渉攻撃と徹底してたたかいぬいた歴史を「追体験」して思うこととして「なぜ日本共産党をあれだけ恐れたか」と問いかけました。

 当時国会には、わずかな議席しかありませんでした。その日本共産党を、国家権力の総力を動員して、謀略を用いてつぶしにかかったのは「科学的社会主義に立ち、事実と道理に立った論陣、真理の光を恐れたのです」と志位さん。「彼らにとっては『理論』は覇権主義の道具でしかなかった。科学的確信も自信もない。もろい基盤の上に立っていたのです」との指摘に納得し、うなずきながらノートをとる人もいました。

 もう一つあげたのが、「たたかいをつうじての日本共産党の理論の発展」です。志位さんは、アメリカ帝国主義の分析、多数者革命論、社会主義の政治体制論、ソ連の覇権主義の歴史的な追跡などをあげ、「スターリンによる歪曲(わいきょく)を総決算し、レーニンの理論の歴史的吟味にも進みました。自主独立のたたかいを通じて、マルクス・エンゲルスの本来の姿がわが党の理論の中によみがえり、結実しているのが党綱領です」とのべると、大きな拍手がわきました。





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