2011年9月18日(日)「しんぶん赤旗」
主張
「満州事変」80年
戦争の誤り繰り返さないため
1931年(昭和6年)9月18日の深夜でした。当時「満州」と呼ばれた中国東北部の奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)で、南満州鉄道の線路を日本軍(「関東軍」)が爆破、中国軍の仕業だとでっち上げて軍事行動を始め、満州全土の制圧に乗り出したのです。
「満州事変」は、日中全面戦争やアジア・太平洋戦争につながる十五年戦争のきっかけであり、第2次世界大戦にも道を開く侵略戦争です。80年の節目を迎え、二度と誤りを繰り返さない、歴史の教訓をくみ出すことが重要です。
国際的に孤立した日本
「満州事変」が、「満州」から内モンゴルにかけ、当時「満蒙」と呼ばれた中国の領土を武力で占領しようとした、日本軍の計画的な軍事行動だったことは明白です。「満州」の南部に駐留していた日本軍は当初「満蒙」の併合を目指しましたが、国際社会の批判をかわすために「自治独立運動」を偽装、翌32年に、かいらい国家「満州国」を建国したのです。中国では「偽満州国」と呼ばれています。
当時の世界は「不戦条約」などで戦争を禁止しており、世界に逆らった日本は戦争と宣言することさえできませんでした。国際連盟も「満州国」を認めませんでした。それでも当初は日本の「権益」を容認する動きもありましたが、日本の侵略拡大とともに占領地からの撤退を勧告。これに従わなかった日本は連盟を脱退し、国際的な孤立へとつき進んだのです。
日本の行動を、権益を守るためには仕方がなかったという主張は通用しません。「満州」での日本の権益そのものが戦争を通じて中国から奪ったものだからです。大きな犠牲を払ったのだから権益は守りぬくというのは本末転倒です。アジア・太平洋戦争の開戦を、国際的な「包囲網」で合理化するのと同じ論法です。
「満州事変」は「関東軍」の独走だけの問題ではありません。直後は日本政府も「不拡大方針」をとりますが、結局は「関東軍」の行動を容認、侵略拡大を認めていきます。もともと「事変」前から台湾や朝鮮半島を支配していたように、領土と権益の拡大は天皇とその政府、軍部、財閥などの一貫した方針でした。責任は明白です。
侵略拡大を国民が支持していたようにいわれるのは大きな誤解です。軍部の策略にそって「満蒙」の「権益を守れ」だの「生命線」だのとあおり立て、戦地からの報道を競ったのは「朝日」や「毎日」、「読売」などの大新聞でした。文字通りつくられた異常な「熱狂」の中で、侵略戦争拡大の道を突き進んだのです。「満州国独立支持」の共同宣言(32年)まで出したマスメディアの責任は深刻です。
戦争反対の力を大きく
「満州事変」にさいし、日本共産党は侵略戦争の危険に警鐘を鳴らし、即時撤退を求めて命がけでたたかいました。少なくない心ある人たちも戦争に反対しました。「満州事変」から15年にわたる戦争を経てつくられた憲法は、二度と戦争の惨禍を繰り返さないと明記しています。戦争に反対した国民の気持ちが生きています。
日米軍事同盟のもとで戦後も戦争の企てが繰り返されています。憲法を守り、平和を守るためには、戦前・戦後を通じ戦争反対を貫く日本共産党と、国民の運動を大きくしていくことが求められます。