2011年8月14日(日)「しんぶん赤旗」
旧日本軍兵士が語った「白陽寺攻撃」
中国人被害者が証言
15家族の地域で13軒焼かれ、5人殺された
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戦中、中国湖北省などで従軍した旧日本陸軍第39師団の鹿田正夫さん(92)=島根県浜田市在住=。2005年に「しんぶん赤旗」連載の「元日本兵が語る『大東亜戦争』の真相」に登場し、1943年12月の「白陽寺攻撃」について証言しました。そのときは中国人被害の実態は不明でしたが、その後、明治学院大学の張宏波准教授(日中関係史)が現地調査をおこない、事件の輪郭が浮かび上がりました。(尾崎吉彦)
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白陽寺は、地元では白雲寺と呼ぶ道教の寺院で、湖北省当陽県(現・当陽市)の山あいの村にありました。攻撃は連隊長の「挺進(ていしん)隊はむろんのこと、従わぬ者は女・子ども構わず殺害し、物資を集め、家屋はすべて焼却すべし」との命令でおこなわれました。
連隊長のいう「挺進隊」は、しばしば日本軍の第一線基地を襲撃した軽装備の抗日軍部隊です。日本軍は白陽寺が拠点になっているとみて約1000人の兵士を動員し、寺と周辺の集落を襲い、百数十人を殺害し、家畜や食料を略奪しました。
村道に遺体
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戦犯に問われ撫順戦犯管理所(遼寧省)に収容された元日本兵から“現地に行き、おわびをしたい”との希望を聞いた張さん。09年8月に湖北省に行き、白陽寺のあった柳林村の協力を得て2人の生存者から聞き取りをしました。
周官洪さん=当時(20)、男性=は、「自分が住んでいた地域は全部で15家族がいたが、13軒が焼かれ、1人が焼け死に、4人が逃げ遅れて殺された。5人が性的暴行を受けた。その後、多くの人がわらぶき小屋での暮らしを強いられた。畑にも食べられるものが残っていなかった」と話しました。
夫と2人暮らしで農業を営んでいた劉文秀さん=当時(16)=は、銃声が聞こえてきて隣の家の庭に隠れましたが、日本軍に見つけられました。
「七十数人が見つかったが、日本軍に協力する『維持会』の人が、この人たちは『良民』だと保証してくれて無事だった。日本軍が去った後、村の道のあちらこちらに死体が転がっていた。当時は死ぬ運命から逃げようなんて思いませんでした」
張さんは、「この事件について、県も村も組織的な調査はしていないとのことでした。村の共産党書記・周啓応さんは、生存者は今も十数人いるだろうと話していました」といいます。
中尉の供述
公文書館にあたる中央档案館に『日本侵華戦犯筆供』という文書があります。このなかで、第39師団の鵜野晋太郎中尉は、「(スパイとして使っていた劉という人物の配下がもたらした)白雲寺情報に依り、該地精密地誌図を作製し、白雲寺大屠殺(とさつ)の資料に」したこと、その見返りに大隊経理室の略奪物資を取り扱わせたと供述しています。
現在、「第39師団罪行概史」の出版準備が進められています。鹿田さんは、「戦犯管理所時代、私よりも古い兵士たち10人くらいが、あの事件はどうだったかなどと議論しながら書いたものがある。その人たちは皆亡くなっており、39師団の一人として編集に協力しています」と話しています。
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