2011年6月8日(水)「しんぶん赤旗」
ドイツ 原発撤退へ
「日本の事故は世界の転換点」
早い政治決断 国民が後押し
ドイツのメルケル政権は6日、国内に17基ある原発を2022年までに閉鎖し、風力や太陽光などの再生可能エネルギーに転換する政策を決定しました。原発に代わるエネルギー源として、再生可能エネルギーが発電に占める割合を現在の17%から20年には35%に引き上げ、エネルギー効率のよい送電網を整備して節電も進める計画です。東京電力福島第1原子力発電所の事故後、3カ月という短期間に脱原発政策が決まった背景には、政府の素早い対応と、脱原発を求める国民の意思があります。(片岡正明)
人間の保護を第一に置く
「原発への安全性の要求が高く、高い安全技術を持っていた日本のような国でさえ、地震と津波による原発事故は防げなかった」「日本で起きたことは世界にとっての転換点だ」
東日本大震災により福島で事故が発生した翌日の3月12日、メルケル首相は、事態の深刻さへの認識をこう語りました。
「ドイツが大地震や津波に脅かされているわけではない」が、「原発の安全性と(放射能汚染からの)人間の保護を第一に置く。妥協は許されない」と表明したのです。
その後、14日には全原発の稼働期間を延長する計画の3カ月凍結を発表。15日には、国内にある17基の原発のうち、1980年以前に稼働を開始し、老朽化した7基について、運転を3カ月間停止し、安全性を点検すると発表しました。
レトゲン環境相は、稼働期間延長を容認するそれまでの姿勢を一変させ、次のように説きました(政治週刊誌『シュピーゲル』4月26日号への寄稿)。
「原発の事故は(人間のミスばかりでなく)自然の偉大な力によっても起こる。われわれは自然の力を過小評価してきた」
同氏はまた、「原子力は短期的には安いエネルギー源として現れたが、重大事故が起こったときには、損失は大きすぎる」と指摘。重大事故を起こした旧ソ連のチェルノブイリの周囲30キロ圏が今も高い濃度の放射性物質に汚染され、閉鎖地域となっているとして、「このような環境的、経済的損失がある。将来の子どもにまで世代を超えて危害を及ぼすことになるかもしれない」と訴えました。
財界寄り与党もかじ切る
福島第1原発の事故を受け、ドイツでは脱原発の世論と運動が高まりました。
ドイツの全国労組、ドイツ労働総同盟(DGB、626万人)のゾンマー議長は「原発の稼働継続という選択肢はない」と訴え、環境保護団体などとともに、3〜5月に原発所在地や主要都市などで、3度、原発反対の集会・デモを呼び掛けました。いずれも、十数万人から20万人超の規模となりました。
事故後に行われた4州議選では、「脱原発」を明確に掲げた90年連合・緑の党の人気が高まり、南西部のバーデン・ビュルテンベルク州では、緑の党の州首相が初めて選出されました。
一方、連立与党は過去にない敗北を喫しました。
これを受け、与党の中でもキリスト教民主同盟の姉妹政党・キリスト教社会同盟が、いち早く脱原発へとかじを切ります。電力会社など経済界は「電力料金が高くなり、産業立地国としてのドイツの地位を危うくする」と反対しましたが、最終的には最も経済界寄りとされる与党・自由民主党も脱原発で足並みをそろえました。
レトゲン環境相は、原発撤退政策を閣議決定した6日、記者会見で、今回の決定について「再生可能エネルギーの推進に大胆に転じることは、競争力の維持につながる。これは、ドイツの将来に積極的な意味をもたらす」と強調しました。
ドイツ原発の歴史
ドイツの原子力発電は、60年に試験炉が稼働、66年に初の商業炉としてラインスベルク原発が稼働(90年に廃炉)し、始まります。
86年の旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故で原発の安全性への信頼が揺らぎ、89年のバーデン・ビュルテンベルク州ネッカーウェストハイム原発2号機を最後に新たな原発建設は停止されました。
連邦議会選挙で勝利した社会民主党と90年連合・緑の党の連立政府が2000年、22年までの原発からの段階的撤退、廃止で電力会社側と合意しました。内容は、(1)各原発の残存耐用年数を商業運転開始から32年を基礎に算定する(2)新規原発建設の禁止―などでした。
09年、保守中道政権が誕生し、政策が後退します。第2次メルケル政権は10年、原発について、再生自然エネルギーで電力をまかなうまでのつなぎの電力とする位置づけは変わらないとしながら、稼働期間を平均で12年、延長することを決定。建造が古い7基は8年、比較的新しい10基については14年、稼働期間を延長(最長で36年まで)しました。それが、福島での原発事故を受け、大きく転換したのです。
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