2011年5月26日(木)「しんぶん赤旗」
「綱領教室」志位委員長の第4回講義
第2章 第5節「異常な対米従属」
|
第4回「綱領教室」が24日開かれ、志位和夫委員長が、党綱領の第2章第5節の「異常な対米従属」について、米国の解禁公文書をふんだんに使って講義をおこないました。
志位さんは、前回の講義の復習をかね、1952年に発効した旧安保条約と行政協定について、中曽根康弘氏(当時、衆院議員)が「要するに…日本をアメリカの植民地化するものですナ」と語ったことを紹介し、だれが見ても「植民地化」の条約だったと指摘。そこで日米両国政府は、表向きだけでも「独立国」の体裁を整えようと1960年に安保条約を改定し、「これで完全に平等なパートナーになった」と宣伝しましたが、これはまったくの偽りでした。
重要な権限はすべて米国が握る――「表の条約」と「闇の条約」
志位さんは、「いまの安保体制をつかむには、『表の条約』とともに、非公表とされた密約―『闇の条約』の全体をとらえる必要があります」と述べて、改定された日米安保条約の条文そのものを解説したうえで、密約群が集中している四つの分野を読み解いていきました。
第一は、「事前協議」に関する密約、「核密約」などの密約群です。志位さんは、安保改定の年の1960年1月6日に藤山外相とマッカーサー駐日大使が頭文字署名で確認した「討論記録」のコピーを示し、核兵器を搭載した軍艦・軍用機などの「立ち入り」「飛来」なら「事前協議」がいらないとし、“米軍基地からの海外への軍事作戦行動も「移動」だ”として「事前協議」の対象としないとする密約の存在を示しました。
第二は、第一の密約群のさらに根本にあるもので、日本での「米軍基地権に関する密約」です。「基地権」とは米側の使う言葉で、日本国民の立場から言えば「基地特権」になります。志位さんは、「重大なことは、占領時と変わらない旧安保体制下の無制限の基地特権を、現行安保条約のもとでそっくり引き継ぐという密約が結ばれていたこと」と述べ、“旧安保条約の行政協定のもとでの米軍の基地権は、改定された安保条約の地位協定のもとでも変わることなく続く”ことを明記した密約の存在を告発しました。
この「米軍基地権の密約」は、「討論記録」と同じ日―1960年1月6日に藤山・マッカーサー両氏の頭文字署名で確認され、「日米安保条約を構成する文書群」の一つに位置づけられています。志位さんは、「この基地特権の密約は、在日米軍に無制限の包括的な特権を認め、アメリカへの軍事的従属構造の根本、土台に位置する、きわめて重大な密約だと思う」と強調しました。
第三は「裁判権放棄の密約」です。53年に「行政協定」が改定され、「公務外」の米兵犯罪の第1次裁判権は日本にあることになりましたが、ここでも「密約」が交わされていました。志位さんは、「秘密」と書かれた米国の解禁文書をかざして、「行政協定」改定の前日に、日本側が「日本にとっていちじるしく重要だと考えられる事件以外については第1次裁判権を行使するつもりはない」と、裁判権を事実上放棄したことを明かしました。
第四は、「米軍が自衛隊を指揮する」という密約です。志位さんは、52年の「行政協定」交渉で、米国が日本の保安組織(当時の保安隊)への指揮権を提案したこと、吉田首相が52年と54年の2度にわたって「最高司令官はアメリカ軍人で問題ない」と保証した「口頭了解」を交わした記録があることが分かり、これは現在も続いているといわれていると述べました。
講義をつうじて、核兵器、基地特権、裁判権、指揮権――軍事同盟にとって死活的に重要な権限はすべて米国が握る「異常な国家的対米従属」(綱領)の仕組みが、半世紀前につくられていたことが浮き彫りにされました。
志位さんは「前回の講義で『なぜ日本はこんなにアメリカ言いなりなのか』という疑問に対して、占領下で『アメリカ絶対のDNA』が刷り込まれたという話をしましたが、半世紀前に形づくられた異常な従属体制にこの問いに対するもう一つの答えがあるのではないでしょうか」と語りました。
栃木県の58歳の女性は、「密約のあまりの無法さにがくぜんとしました。密約の全体像が背景も含めて時系列的に解明され、納得できました」、長野県の30歳の男性は、「いかにして国民をだましてきたかがよくわかった。自衛隊が最初から独立した軍隊ではなかったことに驚いた」と感想を寄せました。
「この従属体制が、今日どこまできているのか」――。志位さんは、民主党政権になって「討論記録」の存在は認めたが、「密約」とは認めず、廃棄しない立場に立っていると説明。さらに、沖縄・普天間基地の「クリアゾーン」(利用禁止区域)問題、空母艦載機の夜間離着陸訓練(NLP)問題、米軍機の低空飛行訓練などを例に、「米軍の基地特権を認めた密約が、現代になお生き続け、国民を縛り付けている」実態をきびしく告発しました。
1960年の“朝鮮半島への出撃は自由”という「密約」について、日本共産党が国会で告発したところ、当時の政府が「しんぶん赤旗」の切り抜きを添えて駐米日本大使館に問い合わせ、一部を入手しながら、「入手の必要はない」との想定問答で国会の追及を逃れようとしたことを紹介すると、会場から笑いが起きました。
志位さんは、安保条約2条の「経済協力」条項にかかわって、原発問題についても言及。日本の原発政策が、日本国民の意思によってではなく、アメリカの原子力戦略に従属して決められていたこと、まず濃縮ウランを提供され、それを燃やすために原発(最初は研究炉)を米国から輸入することになった経緯を紹介。「濃縮ウランと原発をアメリカにいわれるまま輸入してスタートした日本の原発だったが、『輸入』しなかったのがアメリカの安全規制体制だった」として、「経済面での対米従属という問題は、原発事故にも複雑な形で影を落としている」と述べました。
安保廃棄の条項は国民のたたかいにおされて盛り込まれた
講義の最後で、「安保条約には、一つだけ私たちにとって良い条項がある。第10条(通告による条約廃棄の条項)です」。「どうして第10条がつくられたのか」――講義を準備する過程で米解禁文書から明らかになったことを、報告しました。
文書は1957年4月に開始された、岸首相とマッカーサー大使の安保改定の非公式協議について、マッカーサー大使が国務長官にあてた電報です。そこには岸首相が、対米従属に反対する日本国民の世論と運動に言及し、“日本国民の憂慮と不安を一掃するには、安保条約は5年間有効とし、どちらか一方の通告で終了するとすることが必要”と提案したことが述べられています。
「第10条にも“密約”があるのかどうか調べましたが、さすがにないようです」と笑いを誘った志位さん。「たたかいにおされて日米支配者たちも盛り込まざるをえなかったのが第10条。この権利を行使して安保条約をなくせば、密約も全部なくなります。安保廃棄の多数派をつくるために頑張りましょう」と呼びかけると、受講者は笑顔と拍手でこたえました。
東京都の32歳の男性は、「世論の高まり、運動を背景に第10条がつくられたことに勇気をもらいました。沖縄返還同様、国民の連帯と共同によって壁は打ち破れると思った」と感想を寄せました。