2011年5月12日(木)「しんぶん赤旗」
「古典教室」不破社研所長の第4回講義
補講+第2課『経済学批判・序言』
第4回「古典教室」が10日、党本部会場とインターネットの党内通信で全国を結びおこなわれ、不破哲三社会科学研究所所長が第2課『経済学批判・序言』(マルクス)をテキストに講義をしました。
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原発 まさに「利潤第一主義」「ルールなき資本主義」
「震災と原発事故へのこの教室らしい受けとめ方として、補講的なテーマを用意しました」と切り出した不破さん。前半は、第1課で学んだことに照らして、原発災害をどう学ぶのかをとりあげました。
第1課のカナメの一つは利潤第一主義の問題、もう一つは資本主義社会では労働者と国民の生活と権利を守る「社会的バリケード」が重要だが、日本はそれが世界でも遅れた、「ルールなき資本主義」になっていることでした。不破さんは「この二つの問題が大変あからさまな形で現れたのが、福島の原発災害だった」とのべました。
核エネルギーの発見は、火の発見につぐ人類史的意義をもつものでしたが、人類にとって不幸なことは、その利用が戦争目的で始まったことでした。まず原爆が開発され、広島、長崎が犠牲となりました。原発も原子力潜水艦の動力用に開発され、その動力炉が民間用に転用されました。だから、(1)冷却水の供給が止まると暴走が起こるという原子炉そのものの本質的な不安定性、(2)使用済み核燃料の処理方法が見いだせないままでいる、という「未完成」な技術状態がそのまま残っています。日本は、この危険に満ちた道を、備えも覚悟もないまま走り出してしまったのです。
「私が質問した実感からいうと、答弁する相手が何も知らないことにあきれ続けでした」と、歴代首相を追及した不破さんは、76年、80年、81年、99年の自らの国会質問を紹介しました。「安全神話」に浸りこんで事故が起きた場合のことも考えずに原発を推進し、安上がりというだけで地震の危険地帯に集中的に立地させ、老朽化しても“これからがもうけどころ”と運転を続ける…。利潤第一主義のあまりのひどさに参加者からは小さな失笑が何度も漏れます。
安全・管理体制では、80年、2回目の質問の時点でも、「常勤の専門家は1人もいなかった。いわば全部アルバイト」の指摘に、若い男性参加者が「うわ」とうめくような声をもらし、「建設と運転の専門家はいても、事故が起きたときの体制も、防災の技術を持つ専門家もいない。まさに『ルールなき資本主義』の原発版」とのべる不破さんの講義を、参加者は息をのむように聞き入りました。
歴代自民党政府がこの原発政策をすすめ、民主党政権も引き継いでいました。
福井県の男性(27)は「原発問題の解明がすごく分かりやすかった。『ルールなき資本主義』『利潤第一主義』、この二つのものさしではかると、いま何が問題か、すすむべき道はどこかがしっかり見えてくるではないか。科学の目でものを見、問題をつかむことの大切さが、党の原発政策の発展も含め、よく分かった」と感想を寄せました。
不破さんは、この原発・エネルギー問題について、どういう道をとるべきかに話を進めました。戦略的には、原子力発電からの撤退を決断し、その大方針を確立すること、当面緊急の課題では、英知を結集して安全最優先の原発審査と規制の体制をつくること。「これから、国政でもこの議論を大々的に始めなければなりません」と補講を結びました。
山口県の男性(67)は「撤退の決断と原発ゼロへの行動のためにも、強力な権限と知恵を結集した独立機構が緊急に必要だというのも納得できる。こうした現実的、具体的な問題をとらえるうえでも、資本主義の“そもそも論”と結びつけて、ゆるがぬ視点から広く見て考えていくことが必要」と感想文に記しました。
専制政治とたたかい成長していったマルクスの姿
「『経済学批判・序言』(1859年)は、マルクスが社会観、史的唯物論をまとまった形で書いた唯一のもの」。本題にすすんだ不破さんは、テキストに書かれた青年マルクスの「自己紹介」に加えて、「革命家としての自己紹介」を、年表を使い補って説明しました。
史的唯物論について、「歴史の学問と思われがちですが、何よりも今の社会を広く、深く見るためのものです」と注意を喚起。マルクスが1840年代に史的唯物論を仕上げ、ドイツ社会のさまざまな問題に向き合いながら、「革命的民主主義者」から「共産主義者」に成長した足跡をたどりました。
マルクスが生まれたプロイセンは君主制の専制国家で、やがてドイツ帝国の中心になります。明治憲法をつくった中心人物、伊藤博文がヨーロッパ各国を訪問し、ドイツ皇帝から“議会に権限を与えるとろくなことがない”との助言を受け、“自由民権運動を打ち破る武器を手にした”と喜んで憲法の手本にしたエピソードを紹介しました。プロイセンの専制政治とたたかったマルクスと、プロイセンをモデルにした絶対主義的天皇制とたたかった日本共産党には「相通ずるものがある」と指摘しました。
震災後、やっと普段どおりの生活に戻ることができたという岩手の男性(29)は、「若いころのマルクスと、天皇制にあらがう日本共産党の姿がダブり、妙な親近感を覚えた。まるでマルクスが現代の日本に生きているような錯覚に陥った」と感想を寄せました。
「ライン新聞」の論説を執筆するようになったマルクスは、最初に検閲制度の問題をとりあげ、州議会の討論を使って検閲をくぐり、政府を批判。その作戦ぶりは「将来の革命家をうかがわせるものがある」と語りました。同紙が2カ月で800部から3千部に増える好評ぶりだったことを紹介すると、参加者からは「すごい」と声が漏れました。
山の枯れ枝を農民が拾って燃料に使う古くからの慣習を地主と政府が「窃盗」扱いにした問題では、マルクスは農民の権利を踏みにじる地主と政府の無法を徹底的に批判しました。物質的な利害関係に初めて直面したマルクスが、その後も「ライン新聞」主筆としてさまざまな問題にたずさわるなかで、経済の実生活の問題、国家について問題意識を深めていったことを紹介しました。
神奈川の女性(49)は、「マルクスが『物質的な利害関係』につきあたった経験が思想形成の土台になったところに興味をもちました。人民の立場を出発点にしているところが大切なのだなと思いました」と感想を書きました。
同紙が発行禁止されるとマルクスはパリへ移り、ドイツの哲学者ヘーゲルを批判的に研究。“法や国家は、それ自体や人間の精神からではなく、物質的な経済関係に根差している”との結論に到達したことを説明しました。経済学の研究に踏み出そうとした時、エンゲルスの論文「国民経済学批判大綱」に衝撃を受け、手紙での交流が始まったと述べました。
不破さんは、「マルクスは象牙の塔にこもって経済理論を仕上げてから革命運動を始めたのではなく、ドイツの変革のためにヘーゲルを研究し、それを乗り越えて史的唯物論をつかみ、経済学をつかみ、革命理論を仕上げた。そういう理論と実践を体現した革命家です」と、講義をしめくくりました。
埼玉県の男性(29)は、「青年マルクスが、学問は人間解放のためという立場で研究した過程を、生き生きと説明してもらい、夢中になって聞き入りました。かねてから、『こういうことを学びたい』と思っていたことをずばり聞けた」と感想を寄せました。