2011年4月29日(金)「しんぶん赤旗」
新潟で避難 8000人超
“原発なければ福島に帰る”
共産党県議らが調査
東日本大震災から1カ月半。新潟県の調べによると、震災と福島第1原発の大事故から新潟県内へ逃れている避難者は、いまなお8000人以上にのぼります。日本共産党の竹島良子県議と笠井則雄長岡市議は26日、福島県南相馬市から長岡市内に避難している住民を訪ね、実情を聞きました。 (大星史路)
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26日の県発表では、避難所に4535人、親戚・知人宅など避難所以外に3377人、病院や福祉施設に281人が身を寄せています。
長岡市には、9カ所の避難所に620人がいます。竹島県議らが訪ねた南部体育館には、150人が生活。多数が高齢者です。8人の子どもたちが体育館から市内の小中学校に通学しています。
宮内地区社会福祉協議会が毎日、みそ汁の炊き出しをボランティアで行い、温かい一品が喜ばれています。
見えない出口
4月に入り、南相馬市から看護師などの市職員が避難所に派遣されました。「地元の看護師さんが来てくれた」と住民は安心しています。その一人は、「住民のみなさんに精神的な疲れがある。ストレスで若干血圧が高い人も」と話しました。
「長岡のみなさんによくしてもらっている」と話す男性は、「避難生活のトンネルの出口が見えない。原発がなければここにはこなかった。とにかく早く原発事故を収束してもらいたい」と話しました。
避難所には毎日、10人前後の長岡市の職員が通常業務をしながら2交代で詰めています。職員の一人は、「避難所に長く生活するのは大変だが、終わりが見えない」と話します。
避難所を出て、市内に住まいを借り、新たな生活に踏み出そうとする人もいました。
53歳の男性もその一人。市役所で貸家を紹介され、妻と中学、高校の2人の子どもと4人で移り住むことにしました。
働いていた会社は福島第1原発から20キロ圏内にあり、営業できなくなりました。現在、失業手当を受けながら仕事を探しています。「子どもの学校も長岡に移った。しばらくは、こちらで生活することになるだろう。故郷に帰れればいいが、原発次第だ」と話します。
原発から20キロ圏内に自宅がある男性(69)も、娘夫婦家族と一緒に市内の家を借りることにしました。近所の親切が身にしみるといいます。
竹島県議が「私たちは中越大震災で全国から支援をいただいた。その恩返し。みんな支援したいと思っています」と声をかけると、男性は「『遠慮するな』といつもいわれ、ほんとに涙がこぼれる」と手を合わせました。
家賃補助ぜひ
男性は、住み慣れた町を離れ、「あれ(原発)さえなければ」とつぶやきます。「放射能(汚染)があるから手をつけられない。特に子どもへの影響が心配。安全だ、安全だといわれていたのに。これから生活をどうするか、政治に頼るしかない」と話しました。
竹島県議は、「生活再建の具体的方向を国・県が早く指示すことが大事。原発事故で帰れない状況のなかで、いつまでも避難所暮らしというわけにはいかない。支援制度を立ち上げ、普通の日常生活を送れるようにすることが急がれる」と話します。
笠井市議は、「市役所で住宅情報を見ても、家賃が払えず借りられない人がいる。家賃補助制度が必要」と話しました。
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