2011年4月3日(日)「しんぶん赤旗」
原発問題 各党の政策・対応は
民主 新増設計画「見直し」の言及も
自民 米・財界と一体で推進
原子力行政をどう転換するのかが、いっせい地方選での重大争点となっています。この問題で各党の態度が鮮明になりつつあります。
民主党
野党時代から「原子力利用について着実に取り組む」(2009年総選挙マニフェスト)としてきた民主党は、政権につくと10年6月に「エネルギー基本計画」を改定。「2030年までに、少なくとも14基以上の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約90%(08年度は約60%)を目指していく」と自公政権時の計画を上回る目標を定めました。
昨年4月9日の衆院経済産業委員会では日本共産党の吉井英勝議員が「巨大地震に遭遇したときに(多重防護の機器が)壊れて働かない、炉心溶融のようなこと」もありうるとして対策を求めたのに対し、直嶋正行経産相(当時)は「いわゆるトラブルがあっても、メルトダウン(炉心溶融)を起こさないためのさまざまな仕組みをつくっている」と答弁し、なんの対策もとりませんでした。
今回の原発事故を受け、原発政策をどうするか問われても「確定的な方向を何か申し上げるタイミングだとは思っていない」(枝野幸男官房長官、3月18日)と慎重姿勢をとってきました。
自民党
自民党は、米国や財界と一体となって原発建設を主導的に推進してきました。未確立の技術のまま、大量立地をすすめ、使用済み核燃料を処理して回収したプルトニウムやウランを燃やす「核燃料サイクル」計画も進めてきました。
1998年参院選では、東京電力副社長(原子力担当)だった加納時男氏を公認。加納氏は、2010年まで参院議員として原発推進の質問を繰り返しました。
今回の福島原発事故では、発生当初、谷垣禎一総裁が「(原子力政策を)現状では推進していくのは、なかなか難しい状況になっている」(3月17日の記者会見)と述べていましたが、その後「諸外国がみな(原発政策を)見直すとなると、世界中のエネルギー政策、需要の変更につながる大きな問題になる」(3月31日の記者会見)と“慎重姿勢”になっています。
公明党
公明党は1964年の結党以来、原発を推進し、旧社会党に“原発推進をはっきりせよ”と迫ってきました。88年に一時、条件付きで「原発反対」を掲げたものの、98年の党再結成後は再び原発推進に転じ、自公政権で自民党と一体となって原発建設を推進。2003年には「原子力発電を基幹電源として推進する」との「エネルギー基本計画」を策定しました。
野党転落後も「原子力発電の安全性を確保しつつ稼働率を上げるなど適正に推進します」(10年参院選マニフェスト)との立場をとりました。
今回の事故後は、「原発事故の一刻も早い収束」と「広域的な放射能汚染に対する不安の解消」の緊急要請を行いましたが、原発推進政策を見直すかどうかは、だんまりを決め込んでいます。
社民党
社民党は「国会で唯一、脱原子力の政党」(福島瑞穂党首、1日)などと宣伝しています。しかし、政権に入るたびに、その「脱原発」をおろしてきたのが社民党です。
1993年の「非自民」連立政権では、旧社会党が「外交・防衛等の基本施策についてこれまでの政策を継承」するとし、「原子力発電については安全性を確保する」と容認姿勢に転じました。その後、原発推進の自民党と連立を組み、同党出身の村山富市首相は「日本全体の電力の需給関係は2010年までの計画が立っているわけだから、その計画が達成されるよう努力していく」(94年10月18日、参院予算委員会)と答弁していました。
09年総選挙での民主、国民新党との「共通政策」や、3党連立政権の「政権合意」でも原発問題は棚上げしました。
みんなの党 地域新党
みんなの党や地域新党には、まともなエネルギー政策がありません。みんなの党は、原発事故の危機収束の対策は提案しているものの、原発政策にはだんまり。1日、第一声をあげた渡辺喜美代表も、原発事故対策で「石棺化に向けた出口戦略を指し示すべきだ」と述べるだけでした。大阪維新の会の橋下徹府知事は、「震災」にも「原発」にもふれずじまいでした。
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