2011年3月24日(木)「しんぶん赤旗」
原発避難いつまで
一家9人転々
南相馬市→川俣町→福島市→仙台市…
放射性物質が外部に漏えいした福島第1原発の重大事故を受け、多数の地域住民が先の見えない避難生活を送っています。福島県南相馬市原町区の桜川雪子さん(45)と好久さん(47)一家も同様です。一人暮らしの母(71)や長女夫妻ら9人で各所を転々とし、いまは姉家族4人が暮らす仙台市泉区のアパートに身を寄せました。
9人が住む同区地域は、国が屋内退避を発令した、第1原発から20〜30キロメートル圏内に位置します。震災当日、市内の建設会社で働く好久さんは、海沿いの堤防で作業中だったものの命からがら高台まで走って逃げました。
屋内退避指示を受け「怖い。できるだけ遠くに離れたい」と12日夜、9人は、無傷だった自宅を離れました。幹線道路はどこも渋滞だったといいます。
西に約30キロメートルの川俣町内の駐車場で二晩、車中生活。福島市の避難所で1泊し15日夜、仙台に着きました。身重の長男夫妻を東京に避難させるまで、アパート1室に13人で生活していました。
長女の11カ月の赤ちゃんが体調を崩し、病院に駆け込みました。放射線測定で何十分も外で待たされました。「南相馬と言っただけで…」と雪子さん。姉の静花さん(50)は「いつまで続くのか。国は避難者にきちんと補償すべきだ」と語ります。
「原発がある限り、子、孫、ひ孫の代まで事故の可能性が続く。原発政策は考え直してほしい」と好久さんは憤ります。 (記事中仮名、松田大地)