2011年3月20日(日)「しんぶん赤旗」
波は二重の大堤防越えて来た
身寄せ合う被災者
岩手・田老
東日本大震災の大津波は、備えがあった町もほぼ破壊しつくしました。
岩手県宮古市田老(旧田老町)。1896年と1933年にあった大津波被害を教訓に、町は二重に巨大防潮堤(高さ約10メートル)をはりめぐらせていました。しかし―。
「今回の津波は、前回の倍はあった」と88歳の住民、男性はいいます。津波は大堤防を乗り越え、その一部を破壊して、約1600戸を全壊させました。人口約4400人の地区です。
被災から2週間目に入った田老の住民は、厳しい避難生活を続けています。18日、田老第一小学校の教室。着の身着のままで高台をのぼったという男性(68)は「おにぎりですらままならない」と話します。
女性(66)が「それもストーブに乗っけないと冷たくて食べられたもんじゃない。あっついの食べたいね」と続けました。「着たきりだもん。着るものがほしい」。女性の自宅は津波後の火災で全焼しました。
田老のライフラインは全滅したまま。15キロ以上離れた市の中心部では一部商品が売られていますが、車も燃料もありません。ただ19日、田老と宮古市内を結ぶ無料バスが始まりました。
地区外の家族・親類に安否を知らせることも、できないままでいます。市外にいる6人の子どもから「心配されているでしょう」と男性。前出の男性も、東京にいる長男と3人の孫に連絡をとりたいが、「番号を覚えていない」といいます。
「でもストレスはためられない」と女性。「チームワークをとって、にぎやかにしなきゃ。あれが惜しかった、といっても、みんな同じなんだから」。別の男性(75)が「みんな仲良く、健康のために笑っている」と付け足しました。
女性とガレキの町を歩きました。勤めていた工場の同僚の女性たちと再会し、「あー」「大変だったね、お互いね」といって手を握り合う場面も。涙を見せた20代の同僚女性は、父親が流され、遺体安置所に捜しにいった帰りでした。
堤防の上にくると、スタンドだけ残った野球場を指さして、あのあたりに孫たちの家があったと女性。そこの家にあった孫たちの写真が、数百メートルは離れている「小学校の門まで流れてきたの!」だといいます。
荒廃した田老の道沿いには、アルバムがポツリポツリと置かれていました。捜索で発見した人が道側に出したのでしょう。(井上 歩)