2011年3月15日(火)「しんぶん赤旗」
小中学校は廃虚/建物屋上に大型バス…
街を奪い尽くした
宮城・石巻 赤旗記者が遭遇した津波被害
大地震が起こった時、私は宮城県石巻市雄勝町(おがつちょう)を訪れていました。9日の津波で被害を受けた養殖施設の取材のためです。(釘丸晶)
あわや水没に
【11日】
養殖漁師や現地の人から被害状況を聞き、同県漁業協同組合雄勝町雄勝湾支所で改めて話を聞こうと駐車場に車を止めた時のことです、車が前後に大きく揺れ、地面にはみるみる亀裂が走り始めました。消防施設に詰めかけた人々は慌ただしく走り回り、津波対策として設けられた水門が急いで閉じられました。
道を車で戻り、釜谷トンネル付近に一時避難しました。途中携帯で連絡を入れましたが、電話はまったく通じず、メールが1回送信できただけでした。
釜谷地域では北上川をさかのぼってきた津波により川沿いの地域が水没したと言います。
数十分早く、北上川沿いの道に出ていれば、記者の車も津波に巻き込まれていたと思います。
釜谷トンネル付近には町内から逃れてきた車が数十台ありました。雪は、断続的に降り続け、車の中で孤立状態が朝まで続きました。時折上空をヘリコプターや飛行機が通りましたが、ハザードをつけ、パッシングで合図しても気付く様子はありませんでした。
通信手段なく
【12日】
12日朝6時半ころ、避難して停車していた人たちが、集まり始めました。何人かが車で町内の様子を見に行きました。
|
町内から集めた廃材で火をたき、「今後どうなるのか」「この状態がいつまで続くのか」と不安な気持ちが出されました。携帯など通信手段は全く通じず、外部からの情報はラジオからのみでした。雄勝町、釜谷地域の情報は一切入ってこない状態がずっと続きました。
11時ころ、別の避難所へ行く人たちとトラックの荷台に乗り、車で行けるところまで移動しました。道路はアスファルトがめくれあがり、がれきや泥、倒れた電柱などでまともに歩けませんでした。
小中学校は廃虚と化し、流された大型バスが屋上に引っかかっている建物もありました。原形を残す建物は皆無でした。30分以上かけ雄勝町総合支所にたどりつくと、コンクリート建ての庁舎は辛うじて残っていましたが、中は津波により破壊され尽くし、水浸しの状態で、天井からは水滴とともに電灯がブラリと垂れ下がっていました。
同総合支所によると地震後、約30分で津波が押し寄せ、3階建て庁舎の屋上近くまで水が上がってきました。2階にあった防災用品もほとんど流され、放送設備も水につかり、町内に注意を呼びかけることもできなくなりました。庁舎には住民・職員約50人ほどが逃げのび、雪の中、屋上で一晩を明かしました。
雄勝町約1700世帯4000人のうち13日午後1時45分現在、約2000人が町内各地の避難所に逃れ、津波に襲われたり、市外にいるなどで連絡のつかない人が約2000人いるとのことでした。
幸運だった食
【13日】
13日午前、船で釜谷方面から消防団や警察が到着し、「釜谷地域から船でピストン輸送できる。その先でも避難場所を確保する」との情報を耳にしました。しかし、実際に行ってみると満潮のため船が出せなかったり、行き違いも起こりました。総合支所でも町全体に避難場所が点在し、被害や避難の状況が正確に把握できないなど通信手段の欠如が大きな問題でした。
午後に自衛隊が山越えの真野林道を通って到着し、町内の道路もようやく応急的な整備がされ、町外への移動が可能となりました。
被災中、幸運だったのは食料の問題でした。雄勝町は養殖が盛んな土地で、ゆずってもらったカキやホタテをたき火で焼いて食事を取ることができました。降り積もった雪も食材の保冷や手を洗うのに使うことができました。ただし、他の避難所では食料の配給など全くなく、食事をめぐってもめているという話も聞いています。
仙台市に入ってやっと携帯も通じるようになりました。自宅や同僚記者に連絡を入れ、携帯のメールで多くの人が心配してくれていたのが分かった時は涙が止まりませんでした。心配してくれた皆さん、避難場所や仙台に戻る途中でお世話になった方々には心から感謝したいと思います。
|