2011年1月21日(金)「しんぶん赤旗」
きょうの潮流
世界遺産の候補にあがり、観光客がふえる長崎・軍艦島こと端(は)島。炭鉱の島に連れてこられたとき、徐正雨(ソジョンウ)さんは、まだ14歳でした▼日本の植民地だった韓国の南部から、問答無用の連行でした。地底の仕事現場は、うつ伏せで掘るしかない狭さ。暑く苦しく、危ない重労働。粗末な食事。しょっちゅう下痢をする。仕事を休むと、「行く」というまで拷問が続く▼地獄の日々から泳いで逃れようとした朝鮮人は、潮の流れの速い海で溺れ死ぬか、連れ戻されるかでした。徐さんは長崎の造船所へ移され、1945年の8月9日、原爆にあいます。戦後も日本に生き、被爆の後遺症に苦しみながら10年前に亡くなりました▼東京・新宿区の高麗博物館で開催中の「『韓国併合』100年と在日韓国・朝鮮人」展が、当時の軍艦島のありさまや徐さんの体験も紹介しています。展示の数々が、重い事実をつきつけます。「在日」の歴史は、私たちの国の歴史の一部でもあるのだ、と▼いま、六十数万人が日本に住む韓国・朝鮮人。「併合」のあと、多くの人が渡ってくる最初のきっかけは、日本による「土地調査事業」でした。土地の所有権を定めるという調査のさい、大勢の農民が土地を失い食糧難に陥り、国を離れました▼南部の人は主に日本へ、北部の人は中国やロシアへ。いま中国に住む200万人、旧ソ連の数十万人の朝鮮人には、当時ふるさとを出た人の子孫が多いといいます。植民地支配の罪深さを教える、歴史の証人でもある人々です。