2010年10月1日(金)「しんぶん赤旗」
きょうの潮流
26日付に、尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎について書きました。きょうは、後日談をひとつ▼尖閣でアホウドリの羽根の加工やかつお節づくりを始めた辰四郎氏は、1918年に亡くなります。息子の古賀善次氏が事業をついで、あくる19年。中国の福建省の漁船が、嵐にあって尖閣諸島の沖合で難破、漂流します。発見し、助けたのが善次氏たちでした▼彼は、難破船と乗組員31人を石垣島へ連れてゆきます。石垣島民も、彼らを手厚くもてなします。やがて船が直り、彼らは無事に中国へ帰ってゆきました。翌20年、善次氏や石垣の人たちに、中国政府の感謝状がおくられてきます▼そこには、中華民国の駐長崎領事の署名がありました。漁船が遭難した場所を、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内…」と記していました。善次氏はのちに、当時は中国も尖閣諸島を日本領土と認めていた、といい残しています▼1920年という時期にも注目したい。中国では当時、激しい反日運動が起きていました。第1次大戦後、日本が中国に“山東半島をよこせ”と求めたからです。1919年5月4日の学生デモをきっかけに、日本商品の不買運動が全国に広がります▼21年に訪中した作家の芥川龍之介は、女学生たちが不便にたえながら文房具も日用品も日本製を一切拒む姿に、驚き感動しています。そんな折の、東シナ海を舞台にした日中庶民の交流。当然のように、尖閣を日本領とみなした中国。いま振り返っていい、歴史の一こまでしょう。