2010年7月8日(木)「しんぶん赤旗」
米軍基地なくして雇用倍増
跡地、経済特区として発展
フィリピン
1992年に撤去されたフィリピン・ルソン島の米軍スービック基地は、アジア・太平洋地域で最大の米国海軍基地でした。基地撤去から18年。いま同地は経済特区、自由貿易港、観光地として発展の道を歩んでいます。(マニラ=井上歩 写真も)
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午後5時。スービック経済特区の出入り口は、退勤する工場労働者たちで込み合います。
「仕事ができてうれしい。もう少し給料がほしいけど」と日系工場で働くデイシージェーンさん(25)。機械工の男性(26)は「基地から工業団地になったのはいいこと。自分もみんなも仕事があって助かっている」と話しました。
スービック湾管理庁のアレザ長官は、「海軍基地では4万4000人が働いていました。現在は製造業、造船や観光業などで9万人が雇用されています」と語ります。
人生選ぶ自由
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基地返還後、政府はスービックを減税措置のある経済特区にすることを決定。返還当初はピナツボ火山の噴火被害も重なり、仕事を失った地元住民は「絶望していた」と同長官はいいます。しかし地元住民はボランティアで清掃や施設・治安の維持にあたり、希望を捨てずにいると、企業が進出してきました。
現在スービックは国内外の1400社が進出する一大工業地帯であるとともに、海洋公園などのレジャー施設や各種レストランもそろった観光地となりました。米軍の資材置き場はビーチ、兵舎はホテルになりました。夕暮れの海岸では、友人との会話やスポーツを楽しむ学生の姿が見えました。
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スービック管理庁技術部のエスタビリオ部長(41)は、かつて米軍基地で電気技師見習いとして働いていました。地元オロンガポ市で生まれ、父親も基地労働者。「当時、オロンガポの市民はだれもが基地で働きたがりました。地元はすべて基地に依存し、どの仕事も米兵目当て。基地では給料もよかったし、職場環境もよかった」と振り返ります。
エスタビリオさんは返還後、再生するスービックのインフラ整備や建築に従事しました。「興奮しました。発展の可能性をすごく感じ、私自身も本来の建築技師として働けたので」。その後管理庁で昇進しました。
「いまは当時と違い残業代も出ませんが、もし当時に戻って基地か今の仕事かを選べるとしても、いまの仕事を選びます。一番の理由は自立です。いまは多くの選択肢と潜在的可能性があり、みずからの人生を選ぶ自由がある」
アレザ長官も、基地返還で得た一番のものは「経済的自立と主権」だと話しました。
外交に力入れ
米軍基地に詳しいフィリピン大学のローランド・シンブラン教授は「基地撤去後、フィリピンはだれからも侵略、攻撃、脅迫されていません。私たちは近隣国との外交に力を入れてきたからです」と話します。
「冷戦はだいぶ前に終わりました。各国はいま外交と貿易、経済関係での安全保障に移行しています。ここでは経済的に米軍基地に依存していましたが、日本は経済力があり、基地を撤去させる、よりよい条件があります」