2010年3月7日(日)「しんぶん赤旗」
主張
「日の丸・君が代」
鳩山政権は強制方針を見直せ
卒業式・入学式の季節がやってきました。子どもたちにとって、学業を終え進学や就職など新しい進路に向かう、誇りや希望、不安がいりまじる大切な節目です。
ところが毎年、この日に影をおとすものがあります。「日の丸・君が代」の強制です。教育委員会は式の中身そっちのけで、「日の丸・君が代」の実施を監視し、教師たちは起立し歌わなければ処分すると脅されます。子どもたちの気も晴れません。
思想信条は侵害できない
ある教師は「卒業式は最後の授業。これまで人間の尊厳を伝えてきた私が最後に強制をすることはできない」と苦悩を語ります。生徒は「自分たちが大声で歌わないと大好きな先生が処分される」と唇をかみます。こんなことが教育の場で許されていいはずがありません。
日本国憲法は19条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めています。
「日の丸・君が代」は侵略戦争のシンボルであっただけに、それにどういう態度をとるかは、すぐれて個人の良心の問題です。教職員や子どもに特定の態度を強要することは許されません。
もともと「日の丸・君が代」を国旗・国歌とすることは、国民の反対を押し切り、強行されたものです。それでも、国旗・国歌法を強行した当時の小渕恵三首相は、国民の反発を受けて、「法制化にあたり、国旗の掲揚等に関し、義務付けなどをおこなうことは考えていない」と国会で答弁しました。
2006年に教育基本法が改悪された際の国会審議でも、当時の官房長官は、「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱に反対するのは、「思想信条の自由であります」と答えています。
「日の丸・君が代」の強制が、教育の営みそのものを破壊することも重大です。
心にのこる式にしたいと生徒が話し合い、生徒と教師が互いの顔を見られる対面での式が多くの学校で行われてきました。しかし、そんなことさえ「日の丸」を正面に見ないと中止になっています。
子どもの人格の形成をめざす教育は、自主性を尊重してこそ、達成されます。それを否定して人間的な雰囲気をこわすことに、一体何の意味があるのでしょうか。
強制がエスカレートした出発点は、1989年の学習指導要領の改悪です。それまで国旗掲揚、国歌斉唱について「望ましい」としていたものを、「国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と書き換えました。「強制はしない」という政府見解に反し、学習指導の目安としての学習指導要領の本来の性格からも大きく逸脱した誤りです。
教育は「命令」ではない
鳩山由紀夫首相は昨年11月の予算委員会で自民党議員の質問に答え、「日の丸・君が代の指導をかえる所存はない」と答弁しました。思想・良心の自由、教育の自主性を擁護する立場とは相いれない姿勢といわなければなりません。
教育は命令ではありません。子どもたちを主役に、自主的に卒業式、入学式のあり方を決められるようにすることこそ、教育の場にもっともふさわしいものです。自公政権と交代した鳩山政権に、「日の丸・君が代」強制を見直すことをつよく求めます。