2010年1月15日(金)「しんぶん赤旗」
主張
阪神・淡路大震災15年
悲惨な体験を生かし続けて
住み慣れた家々を焼き尽くした炎のおそろしいまでの赤さ、電気もガスも止まり活動がストップした町の耐えられないほどの寒さ、そして不便な郊外や埋め立て地に大量に建てられた仮設住宅の荒涼とした風景―何年たっても、五感に染み付いた大災害の記憶は、消えてなくなりません。
阪神・淡路大震災から15年たちます。6千人以上の貴重な人命を奪い、50万近い世帯の家々を全半壊(焼)させた歴史的な大災害です。その後も各地で地震など災害が相次いでいますが、かつてない悲惨な体験を生かし続ける意義は、いまも失われていません。
生活より開発優先のつけ
1995年1月17日未明、近畿地方を襲ったマグニチュード7・3の大地震は、神戸や阪神間の住宅密集地に、大きな被害をもたらしました。それから15年、いま被災地を訪れても、表向き、被害のつめ跡を見つけるのは困難です。しかしビルは新しくなっても住民は戻らず、商店街にも町工場にも昔のにぎわいはありません。真新しい高層住宅では、住民の高齢化と、コミュニティーの崩壊が大きな問題になっています。
この間、「構造改革」路線による地域経済の破壊や、長引く不況の影響もあります。しかし、震災後国や自治体が進めた「復興」が、住みなれた町と住民の暮らしを立て直すのではなく、兵庫県と神戸市が震災前に立てた開発計画をしゃにむに推し進めたように、高速道路や空港、都市再開発などの巨大開発を最優先してきたひずみが、色濃く影を落としています。
震災後の10年あまりに国や県、神戸市などによって大地震の直接の被害額約10兆円を上回る16兆円以上もの復興事業が行われました。被害の復旧よりも「新たな視点から都市を再生する」と位置づけた「創造的復興」が優先され、全体の約6割が開発やインフラ整備に投じられ、県や市の借金だけが増えています。その一方、被災者が切望した個人補償は拒否し、「自力再建」を押し付けた結果、住民の暮らしや地場産業は立ち直らず、今日の事態を迎えています。
地震は避けることが難しい天災ですが、被災者への手厚い対策で被害を受けた人たちの痛みを軽減し、和らげることはできます。国や自治体が手厚い対策を怠ったため救われるべき命が失われ、町が崩壊するのは、まさに人災です。
震災直後作られた急ごしらえの仮設住宅では、近所づきあいも失われた被災者の「孤独死」が相次ぎました。個人の力だけではどうにもならない被害のため、生活を立て直すことができず、町を離れた人も少なくありません。いまも続く震災のつめ跡は、政治の責任を浮き彫りにしているのです。
公的支援の充実をもとめ
阪神・淡路大震災の被災者は、「人間復興」をスローガンに、全国と連帯して、被災者への公的支援の実現を働きかけてきました。その結果、被災者個人の被害を補償する、前例のない生活再建支援法を実現し、その改善を積み重ねてきたのは大きな成果です。
残念ながらこの法律は、阪神・淡路大震災の被災者へは適用されていません。阪神大震災の被災者への支援を強め、生活再建を実現していくとともに、この法律をさらに充実していくことこそ、悲惨な体験を生かしていく道です。