2010年1月4日(月)「しんぶん赤旗」
ゆうPRESS
落語一筋
365日修業中!?
前座 春風亭昇吉さん
着物に着替える手つきは慣れたもの。春風亭昇吉さん(30)は落語家をめざし、前座として修業中です。365日、落語漬け。楽屋ではてきぱきと準備をし、師匠を迎えます。(栗原千鶴)
|
春風亭昇太師匠に入門して、2年半になります。毎日、楽屋で懸命に働いています。
落語の中に「人間性が現れてしまう」。掃除、お茶出し、ネタ帳付け―。山のようにある仕事も、いっさい手を抜きません。
入門したてのころは、座布団を下げてはいけないところで下げてしまったり、マイクを出し忘れたり―。失敗は数え切れないほどあります。「もう、そのたびに謝るしかありませんでした」と苦笑いです。
落語の魅力は?
「落語って江戸時代の話が、現代でも面白い。普遍的ですよね。表現力や描写力で、単純なものも面白くなるし、同じ話も演者によって、雰囲気も、お客さんが笑うところも違う。落語はシンプルなのに奥が深い」
東大の落研に
昇吉さんは、ちょっと変わった経歴の持ち主です。
地元の大学に通っていましたが、物足りなくなり、東京大学を受験。23歳で合格し、そこで落語研究会(落研)に出合います。「変な人がたくさんいました。面白そうだなと思って軽い気持ちで入ったんです」
当時、落研といっても、コントが中心でした。落語の歴史や演目を研究しているOBの影響で、一緒に寄席に行くように。そこから、実演にも興味を持っていきました。
その年、岐阜市主催の「全日本落語選手権」に出場します。「お客さんが笑ってくれると、もう一度やりたいと思う。中毒みたいな感じですね(笑い)。それで深みにはまっていきました」
練習方法を独自に考えました。寝転がってしゃべってみたり、ビデオに録画して、動きを見直してみたり。1日16時間、練習したこともありました。
3年生のときに、同選手権で優勝。落語家への道を考え始めます。
「社会的なことをやってみたい」。そう思ったのもこのころです。
盲学校や少年院、病院などに、落語をさせてほしいという趣旨と自らの連絡先を記したはがきを出し、呼んでもらいました。
印象的だったのは盲学校での出来事です。「話のなかで、一人二役をするときに、右(上手)と左(下手)を向いてしゃべる落語の基本動作を、見えていない子どもたちが感じていたことです。本当に驚きました」
2004年に起きた中越大震災の被災者たちが暮らしていた仮設住宅で、民族芸能を守る会が企画した「出前寄席」にも参加。「視野が広がった」といいます。こうした活動が評価され、東大総長大賞も受賞しました。
「好きだから」
余裕ができたらまたボランティアをやりたいと意欲的です。
「東大を出たのに、なにも落語家にならなくたって―」。多くの人から言われてきました。周囲には高収入の級友もいます。
入門が決まるまで、「誰かに相談しても、やめたほうがいいと説得される」と、親にも話しませんでした。
そこまでして、なぜ続けるの?
「落語が好きだから」。納得です。
春風亭昇吉さんが務める前座の仕事について紹介します。
前座のお仕事
師匠が気持ちよく高座に上がれるようにするのが前座の大事な役目です。
高座の前に出勤し、まず着物に着替えます。お湯を沸かしたり、掃除機をかけたり、座布団を敷いたり、楽屋で師匠方を迎える準備。演者の名前が書いてある「めくり」を出演者順に並べセッティングします。
開演時間までに、一番太鼓。口演が始まれば、座布団やマイクを出したり下げたり。演者一人ひとりに違うお囃子(はやし)の太鼓を打つことも仕事です。
演目をネタ帳に書きます。ネタは前もって教えてもらえるものではありません。口演を聞いて記します。知らないネタのときは、師匠に聞くこともありますが、ここでは勉強の差が出てしまいます。
一緒に大震災の慰問も
民族芸能を守る会事務局長・茨木葰さん
当会は、落語だけでなく、講談、邦楽など日本の伝統芸能を守り、継承・発展させていこうという芸人を中心とした集まりです。
当会の会員である東大落研のOBが、まだ大学生だった昇吉くんを連れてきて、紹介されました。あのときはまさかプロになるとは思っていませんでしたね。
その後、一緒に中越大震災の慰問に行ったりして、社会性のある取り組みに積極的に参加していました。私たちが取り組んでいる地域寄席などにも参加して、落語をやっていく意義や庶民に育てられた落語の面白さを理解してもらえたのではないかと思っています。
一人前になるには時間がかかり、厳しい道のりです。周りで応援してくれている人を忘れず、頑張ってほしいですね。