2009年12月4日(金)「しんぶん赤旗」
“核艦船対象外”当初から
58年安保交渉時 米、日本に説明
“密約解釈ずれ”成り立たず
米解禁文書
1960年の日米安保条約改定時に結ばれた核持ち込み密約をめぐり、米側が改定交渉開始時に、「核兵器を積載している米軍艦」の日本領海・港湾への立ち入りは従来通り行われ、「事前協議」の対象にならないと日本側に説明していたことが分かりました。国際問題研究者の新原昭治氏が入手した米政府解禁文書で明らかになりました。
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新原氏入手の解禁文書は、58年10月22日にマッカーサー駐日米大使が、日米安保条約改定交渉の詳細を伝える参考情報として、マニラの米大使館に送った極秘電報です。
電報は、マッカーサー大使が58年10月4日の安保改定交渉の最初の会合で、岸信介首相と藤山愛一郎外相らに対し、「事前協議」に関する米側解釈を、米国務省・国防総省共同の訓令に従って説明したと指摘。この訓令は「核兵器を積載している米軍艦の日本の領海と港湾への立ち入りの問題は従来通り続けられ、〔事前〕協議方式の対象にはならない」との米側の理解について日本側に確認を求めるものだったことを明らかにしています。
日米両政府は60年1月6日、「討論記録」という形で核持ち込み密約を結びます。これは、従来行われてきた核積載米艦船の日本への寄港や領海通過を「事前協議」の対象外とし、今後も認めるという内容。しかし、この内容をめぐっては、「討論記録」に「核兵器」の文言がないことから、日本側は当初、核積載艦船の寄港・通過が「事前協議」の対象外とは思わず、米側と“解釈のずれ”があったとの指摘が一部からなされています。今回明らかになった解禁文書はこの指摘に反し、日本側が「核兵器積載艦船」の寄港・通過は協議の対象外になるという米側の説明を聞いていたことを裏付けるものです。
当時、外務事務次官だった山田久就氏は退官後、国際政治学者の原彬久氏のインタビューに、核積載艦船の寄港・通過は「事前協議」の対象になるとの答弁は「野党の追及を怖れる“とりつくろい”にすぎなかった」と証言しています(原氏著『戦後日本と国際政治 安保改定の政治力学』)。
討論記録(核密約) 59年6月20日に日米間で合意が成立。60年1月6日にマッカーサー駐日米大使と藤山愛一郎外相が署名。安保改定で始まった「事前協議制度」について「合衆国軍用機の飛来、合衆国艦船の日本領海や港湾への立ち入りに関する現行の手続きに影響を与えるものとは解されない」と規定。核積載米艦船・航空機による核持ち込みを認めました。
米政府の解禁文書
抜粋
米政府解禁文書(抜粋)は次の通りです。
1958年10月22日、東京・米大使館発マニラ・米大使館あて「極秘」電報
マニラのボーレン大使あて
…〔事前〕協議方式(…)は、10月4日の〔日米安保条約改定〕交渉の最初の会合で、一括提案の一部として私〔マッカーサー大使〕によって岸〔首相〕と藤山〔外相〕に提示された。一括提案に含まれているものは、条約案、〔事前〕協議方式、この〔協議〕方式についてのわれわれの解釈の説明である。
説明は、国務省・国防総省共同の交渉訓令に従って行われた。訓令は次のようなものであった。
“適切な時点で米軍とその装備の日本への配置の協議に関する日本側の要請に応じるため、われわれの方式を持ち出して合意を追求すること。交渉の過程では、以下の諸点についてわれわれの理解への確認を求めること。
(A)米軍とその装備の日本への配置は核兵器にのみ当てはまること、(B)核兵器を積載している米軍艦の日本の領海と港湾への立ち入りの問題は従来通り続けられ、〔事前〕協議方式の対象にはならない”
私は、岸と藤山にどのようにして合意した解釈を最もよく記録に残せるかについて彼らの考えを尋ねた。現在の見通しでは、最終的にどのような形式で合意されようと、〔事前〕協議方式自身は恐らく合意覚書または交換公文として公表されることになろう。しかし合意した解釈は恐らく秘密にされることになろうが、実際に〔事前〕協議方式が何を意味するかについての双方による公の説明の根拠として役立つことになろう。
…(略)…
外務省の実務関係者からは一括提案のいくつかの点について説明を求められたものの、岸も藤山も10月4日の協議でも、その後の機会にも、われわれの提案のどの部分に対しても本質的内容を含む対応は一切表明していない。本日、第2回目の会合が開かれるので、彼らから何らかの対応を聞くことになるかもしれない。
…(略)…
マッカーサー