2009年11月13日(金)「しんぶん赤旗」
完成しても使えない
水入れ直後 地すべり
計画当初 230億円 → 6回増額 3640億円
奈良・大滝ダム
長期にわたる根強い反対運動から“東の八ツ場(やんば)、西の大滝”と呼ばれた東西の巨大ダム。奈良県川上村の大滝ダムは2002年に完成したもののダム湖は空です。現地に見ました。(小林信治)
37戸全員が移転してほとんど無用となった、23億円の最新式の橋を225メートル渡り切ると急な山肌にしがみつくような白屋(しらや)集落です。
小道や更地となった至る所に亀裂が走り、長さ1メートルを超える裂け目もそのままです。壊されずに残された公民館と2軒の家、物干し台や赤い郵便ポストが寂しげです。
ダム完成の翌03年、試験的に水を入れ始めると、1カ月もたたないうちに集落ごとダム底に向かって地すべりを引き起こしました。
その6年前の恐怖を元住民は「床下の亀裂は初め指が入る程度だったが腕一本入るまでに広がり、トイレの窓は開かなくなってひし形に、家は前のめりに傾いていった」と語ります。
「案の定の地すべりだった」と付け加えます。
74年に警告が
72年にダム計画が明らかにされると、村民の依頼で調査した吉岡金市・前金沢経済大学長、和田一雄・金沢経済大助教授(=当時)が、大滝ダム建設によって「地すべりが拡大することは必至であり、現在までの科学と技ではそれを防止することはできない」と74年に警告。
奈良県も「ダム湛水(たんすい)により斜面の安定度は低下し、最悪の場合を想定すれば水没斜面の地すべり発生の可能性がある」(78年、同地質調査委員会)と警告していました。
共産党が繰り返し地すべりの危険を追及しても「十分長年月耐えるような工法等も考えながら対処してまいりたい」(80年、辻第一衆院議員=当時=への国会答弁)と、工事を推進しました。
集落丸ごとの移転を余儀なくされても村に残った村民は、顔中に深いしわを刻んで「白屋に帰りたい。10月と言えばお祭りでみんな寄って太鼓たたいて酒飲んで、楽しい思い出ばかりだ」と話します。
別の村民は疲れた表情を浮かべ、40年以上の年月を振り返ります。「残ったのはねたみだけ。あの家は補償でいくらもらった、うちは少ない、などと。先祖代々助け合って暮らしてきた24人の集落が24の心に引き裂かれた」と話します。
貯水によって白屋が地すべりしたことを国交省が認め、半分まで達した水を放水。住民や共産党がダム湖全体の調査を求めると2006年、大滝、迫(さこ)地区でも地すべり対策が必要と判明。12年までの工事を継続中です。
大災害の恐れ
地すべり地帯に長野県諏訪湖を超える水量の巨大ダムです。宇民正・元和歌山大学教授は04年、バイオントダムのような災害の可能性を指摘しています。イタリアのバイオントダムは1960年の試験貯水後の地すべりでダム津波が起こり、2000人を超す死者を出しました。
大滝ダム建設で493戸が移転を余儀なくされ、その3分の2が村を去った重い現実の一方で、ゼネコンの熊谷組、日本国土開発、大豊建設、大成建設、鹿島建設、奥村組などに巨費が注がれました。
計画当初、230億円としていたはずのダム建設事業費が78年、88年の増額で1540億円へと膨れ上がりました。00年、02年の増額で3210億円へと増額しても止まりません。完成後の地すべり対策とダム維持費などで05年、06年にも増額。計3640億円へと6回も増額したのです。
大滝ダムのようにダム建設事業費は、国交相が関係知事などの意見を聞き、協議しさえすればいくらでも増額できる仕組みです。ダム本体工事を開始した88年の時点からだけでも建設事業費が2倍以上に増えました。
当の国交省近畿地方整備局でさえ、「6回の基本変更で進めていくとしか答えようがない」と大滝ダムに、あといくら税金を投入すれば済むか言えません。
巨費を投じた大滝ダムを簡単に壊すこともできず、かといって存在自体が危険。自民、公明両党のダム推進政策によって、解決策の見いだせない“昭和・平成の難物”となり果てています。
地すべり地に建設が始まっている群馬県八ツ場ダムですが、本体はまだ着工していません。「ダム中止の方が高くつく」という推進派の言い分を木っ端みじんに打ち砕く事実が西の大滝ダムにあります。
大滝ダム 総貯水量8400万立方メートル、紀の川水系の重力式コンクリートダム。1965年に建設を始め2002年に完成。国交省が事業主体で、治水から多目的ダムへと目的を変えました。
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