2009年8月3日(月)「しんぶん赤旗」
核密約と手を切り「非核の日本」の実現を
社会科学研究所所長 不破哲三氏に聞く
第1回 これが核密約だ
日本への核兵器持ち込みを認めた日米核密約の存在が、歴代外務事務次官の証言などであらためて注目をあびています。この問題で、2000年に国会の党首討論で密約全文を示し、政府を追及した日本共産党の不破哲三・社会科学研究所所長(当時、党委員長)に、核密約問題とは何か、日本の進路はどうあるべきかを聞きました。
60年安保の核心がここに
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――核密約とは一体どんなものですか。
不破 核密約が結ばれたのは1959年6月、現行安保条約締結の半年前です。以来50年、国民と世界を欺いて日本に核兵器が持ち込まれてきた、日本の主権と世界の平和を脅かす大問題です。
その意味・内容をよくつかむには、安保条約の歴史を考える必要があります。
日本は、アメリカとの安保条約を2回結んでいます。最初の安保条約は1951年、朝鮮戦争の最中に、講和条約との抱き合わせで、強引に押しつけられたものでした。アメリカが占領中に日本全国につくった基地をそのまま残す、使い方も勝手放題という内容で、基地の実態は、全面占領時代とほとんど変わりませんでした。
その次に1960年1月に結んだのが現行安保条約で、大きな柱が二つありました。一つは、いざという時には、米軍といっしょに戦争をするという「日米共同作戦」条項(第5条)です。
もう一つが基地条項(第6条)で、独立国・日本の体裁をととのえようということで、「事前協議」の仕組みが新たにつくられました。基地の使い方はもうアメリカの勝手にはしない、重要なことは、日本政府と事前に協議してからやる、という仕組みです。
政府は、60年安保の当時、いよいよ日本の独立が認められる、“日米新時代”が始まった、といった大宣伝をやったものです。その時の最大のうたい文句が、「事前協議」でした。
1959年6月の日米交渉というのは、この「事前協議」の仕組みをつくることが一番の仕事で、そこで合意した結論が、核兵器の取り扱いを含む密約だったのです。
「討論記録」とは日本側が注文
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――この文書には、「討論記録」という、協定らしからぬ表題がついていますね。
不破 この時の交渉の様子を説明したアメリカ政府の報告書があるのですが、この表題は日本政府の注文で、あとあと「いかなる秘密取り決めの存在も否定できるようにするために」、秘密の「討論記録」と呼ぶことになった、と書いてあります。
まぎれもない核密約が中身
――国民と世界を最後までだまし続けるつもりだったのですね。
不破 いくら表題だけ変えても、これが日米両政府間の秘密協定であることは、中身をみればすぐわかるのです。
協定の全文は、ここに紹介してあるとおりです(別項)。
最初の1節は、事前協議についての「交換公文」、つまり発表用の取り決めの「案」です。在日米軍の「装備における重要な変更」と「戦闘作戦行動」のための基地の使用とは、日本政府と協議する、アメリカが勝手にやることはしない、これが主な内容です。
核の出入りは米軍の自由に
――これが、岸信介首相とハーター米国務長官のあいだの「交換公文」になって、“日米新時代”の証しとされたわけですね。
不破 そうです。しかし、取り決めでは、いちばん大事なこと、「事前協議」の運用の内容を、第2節に書いてあるのです。
ここには、AからDまで4項あって、A項とC項が核兵器にかんする取り決めです。まず、A項では、事前協議にかけるのは核兵器とその運搬手段となる中・長距離ミサイルの「日本への持ち込み」だと規定しているのですが、ここの注目点は、「持ち込み」を表すのに「イントロダクション(導入)」という言葉を使っていることです。
そしてA項のただし書きがC項で、これが核密約の要です。「事前協議」の条項は、米軍の飛行機や軍艦の通過・立ち寄り(「エントリー」)には適用されず、それは「現行の手続き」通りとする、という内容です。「現行」とは、アメリカの勝手放題ですから、核兵器を積んでいても、軍用機や軍艦は、日本に自由勝手に出入りできる、こういう重大なことが、ここで決められました。
読まれていた日本側の腹の内
――C項には、核兵器という言葉が1回も出てきませんね。
不破 交渉経過についてのアメリカ政府の報告書には、こう書いてあります。
“日本側の交渉担当者は、第7艦隊の軍艦が核兵器をもって日本の軍港を出入りしていることは、うすうす気づいているのだが、問題の真相をつきとめるつもりはない”
“核兵器という言葉をはっきり書いて、その「エントリー」を認めるという協定に署名できる指導者はいない”
いわば日本の手の内、胸の内をすっかり読んだ上で、その日本側が承認しやすい文章づくりに工夫をこらしたのでしょうね。C項で話がまとまった時のことを、この報告書は、「日本側は、『討論記録』でのこの言い回しを受け入れた」と書いていますが、これで安保交渉が山を越えた、とほっと安心した様子が目に見える書きぶりでした。
代表が署名した公式の条約文書
――戦争への出撃条項についても、同様のことがあるのですね。
不破 ええ。きょうの主題ではありませんから、簡単にしますが、B項で「日本国以外の地域にたいして日本国から起こされる」行動が対象になるのだ、と規定したうえで、D項で、軍隊の「移動」は、対象にはなりませんよ、というただし書きをつけた。「移動」の名目さえつければ、あとは米軍の自由勝手というわけで、これで、日本を戦争の出撃基地に自由に利用できる仕組みができました。
あと残っていたのは、この取り決めを日米両国政府間のきちんとした条約上の取り決めにする作業だけでした。そこで、事前協議に関する59年6月交渉の結論を、公開部分と秘密部分の二つにわけて、公開部分は、「岸・ハーター交換公文」として岸首相とハーター国務長官が公式に署名して公表する、秘密部分は、「討論記録」をそのまま協定文書とし、藤山愛一郎外相とマッカーサー大使が頭文字署名をし、公式の秘密文書とすることを確認しあう、こういう手続きをきちんととることにしたのです。
岸首相がアメリカを訪問して、ワシントンで日米安保条約に正式に調印したのは、1960年1月19日のことですが、東京で最終的な実務準備にあたったマッカーサー大使は、1月6日、藤山外相との署名手続きを終わったとき、即日、国務長官に報告の電報を送りました。9日には、「われわれが承知している条約文書の全リスト」を作成して国務長官に送っていますが、そこには17の条約文書が列記されており、核密約は、「協議方式に関する討論記録」として文書の14番目にあげられています。
こうして、日米核密約は、公式の条約文書になりました。
二重底の「偽装」協定
――いきさつの全体がわかると、「事前協議」制というのは、この仕組みそのものが、まったくのごまかしの制度なのですね。
不破 事前協議の方式について協議して、その結論を、発表できる宣伝文句的な部分と、現実の運用を決めた密約部分に分け、前者だけを「交換公文」として公表した。
いわば二重底の仕組みですね。表だけ見ると、りっぱな制度のように見えるが、これは上げ底で、実態は米軍自由勝手の方式ということです。「偽装」協定といってもよいでしょう。
“日米新時代”のうたい文句にした「事前協議」条項は、条約上もまったく形だけの空文だったのです。核兵器の持ち込みも自由勝手、日本からの戦場への出撃も自由勝手、ということですから。
密約によるこの仕組みのおかげで、アメリカは、日本を核戦争の拠点として自由に使い、ベトナム戦争でも、日本を出撃基地として自由に使うことができたのです。政府は、「事前協議」制度を一度も使わないで済んだことを、自慢げにいうことがありますが、この49年間これだけ基地が勝手に使われても「事前協議」がなかったということは、密約のためにこれが空文になっていたことの最大の証拠なんです。(つづく)
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討論記録(全文)
相互協力及び安全保障条約
討論記録(レコード・オブ・ディスカッション)
東京 1959年6月
一、条約第6条の実施に関する交換公文案に言及された。その実効的内容は、次の通りである。
「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更並びに日本国からおこなわれる戦闘作戦行動(前記の条約第5条の規定にもとづいておこなわれるものを除く。)のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする。」
二、同交換公文は、以下の諸点を考慮に入れ、かつ了解して作成された。
A 「装備における重要な変更」は、核兵器及び中・長距離ミサイルの日本への持ち込み(イントロダクション)並びにそれらの兵器のための基地の建設を意味するものと解釈されるが、たとえば、核物質部分をつけていない短距離ミサイルを含む非核兵器(ノン・ニュクリア・ウェポンズ)の持ち込みは、それに当たらない。
B 「条約第5条の規定にもとづいておこなわれるものを除く戦闘作戦行動」は、日本国以外の地域にたいして日本国から起こされる戦闘作戦行動を意味するものと解される。
C 「事前協議」は、合衆国軍隊とその装備の日本への配置、合衆国軍用機の飛来(エントリー)、合衆国艦船の日本領海や港湾への立ち入り(エントリー)に関する現行の手続きに影響を与えるものとは解されない。合衆国軍隊の日本への配置における重要な変更の場合を除く。
D 交換公文のいかなる内容も、合衆国軍隊の部隊とその装備の日本からの移動(トランスファー)に関し、「事前協議」を必要とするとは解釈されない。
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