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2009年7月27日(月)「しんぶん赤旗」

ゆうPRESS

青年監督が見た「未帰還兵」日本人

彼らが言いたかったこと

映画「花と兵隊」

松林 要樹さんに聞く


 1945年、第2次世界大戦の敗戦を迎えても日本に戻らず「未帰還兵」となった青年兵士がいます。戦争を知らない松林要樹監督(30)が、80歳をとうに超えた「未帰還兵」たちの人生を記したドキュメンタリー映画「花と兵隊」を製作しました。タイトルの「兵隊」は未帰還兵、「花」は彼らを支えてきた妻をさしているといいます。未帰還兵を通して、いま日本に生きる人々に何を伝えたいのか―。松林監督に聞きました。(栗原千鶴)


 映画で証言する未帰還兵は撮影当時、84歳から90歳までの6人です。

 「未帰還兵は高齢です。でも彼らが語る戦争体験や、その後の生き方は、おじいちゃんが、おじいちゃんの時に体験した話ではありません。若いとき、ぼくと同じ20代のときの話、同世代の人が体験した話なのだと感じながら撮影しました」

 費やした年月は約3年。証言を断られることもありました。何度も通って、日本茶を持っていったり、「慰霊碑」の掃除をしたりして、やっと証言してもらう許可が下りたこともありました。

 映画の中心となる坂井勇さんの家には50日近く泊まったといいます。「坂井さんと、中野弥一郎さんの家はすぐ近くで、坂井さんの家に泊まりながら、中野さんの家に通いました。向こうの人は、ご飯でもてなすことを大切にしています。だから僕も、どちらの家でもご飯をすすめられて、1日5食食べたときもありました」と、長かった撮影も笑顔で振り返ります。

各国を回り

 映像に興味を持ちはじめたのは高校生のとき。「専門学校があると聞いていましたが、映画監督になんて、なりたくてもなれるものじゃないでしょう」と、地元の大学に進学。2000年に「座学ではなく、世界を見てみたい」と旅に出ました。

 タイをはじめ、パキスタン、ベトナム、カンボジア、アフガニスタンなどアジア各国をまわりました。

 「途中で赤痢になりました。地元の人は『治るから心配するな』と言ったけど、いざ死ぬかもしれないと思ったら、人が言うことが信じられなくて。治ってから、なんて自分が小さな人間だったんだろうと感じました」

 旅のなかで、日本が起こした戦争の話を地元の人から聞きました。「未帰還兵のことも聞きましたが、そのときは、うそだろと思った」と言います。

 帰国後、大学を辞めて21歳で川崎の日本映画学校に入学。同校の創始者、今村昌平監督が1970年に作った未帰還兵のテレビドキュメンタリーを見て、続編を作りたいと思い立ちます。「その番組を見たとき衝撃を受けました。自分が放浪中に聞いたことは本当だったのか、と。でも、未帰還兵が、タイムトンネルの向こうにいるような感じがして、自分で確かめたくなった」と言います。

重い口開く

 テレビでの放映をめざし、テレビ局などに企画を持ち込みますが採用されず、映画にすることに。「自分がやりたいことは、テレビでは無理なのかなって思いました」

 撮影中に、証言してくれた坂井さんと藤田松吉さんの2人が亡くなりました。「遺言になったと思う。この映画は、ぼくの主張じゃない。彼らが言いたかったことを、映画にしたかった」

 彼らの遺言は何だったのでしょうか。

 坂井さんは、現地で結婚し、コミュニティーをつくって地元の役に立つことで認められ、生きる意味を見いだしてきました。松林監督は「日本には帰らなかったが自分は幸せだったということが言いたかったのだと思う。彼の姿から家族って何なのか、生まれたときからモノに囲まれている日本って本当に豊かなのか、と考えさせられました」と語ります。

 重い口をやっと開いて中国人を殺したと、当時の様子を証言してくれた藤田さん。「彼が言いたかったのは、戦争に対する天皇の責任についてだと思う。天皇はなぜ日本の兵隊に謝らなかったのかと、疑問を抱いて亡くなっていった。この映画を見た人にも、そのことを一緒に考えてほしいと思います」


「花と兵隊」あらすじ

 第2次世界大戦時、タイとビルマ(現ミャンマー)の国境付近で敗戦を迎えた後、所属部隊を離れ、日本に帰らなかった「未帰還兵」のいまを追った長編ドキュメンタリー。2005年から3年間にわたる取材で、元兵士たちの証言を記録しました。

 8月8日から東京・シアター・イメージフォーラム(電話03・5766・0114)で、15日から大阪・第七藝術劇場(電話06・6302・2073)など、全国でロードショー。


 まつばやし ようじゅ 1979年福岡県生まれ。2004年、日本映画学校卒業。05年にアフガニスタン、インドネシア、アチェなどの映像取材に従事。バンコクを拠点にテレビ番組の取材と並行して「未帰還兵」の取材に取り組む。


お悩みHunter

今も平和運動したいけど

  フリーターです。高校生のころは、友だちと平和運動に取り組んで、被爆者の話を聞いたり、折り鶴を集めたりしていました。卒業後、安定した仕事に就けなくて、だんだん遠ざかってしまいました。でも、今でも、憲法9条は守りたいと思うし、核兵器はなくしたいと思っています。私みたいな者でもできることがあったら、教えてください。(23歳女性)

周りの人に思い伝えて

  生活のために活動から遠ざかりつつも、いまでも平和への思いを持ち続けていると聞いて私はとてもうれしくなりました。そして、あなたのその思いがどこからくるのか聞いてみたくなりました。

 以前、平和運動をなさっている川田忠明さんの「反核という生き方」と題した講演を聞きました。核兵器という人間を否定する兵器に対して、ある被爆者は「核兵器とたたかうことでしか人間回復の道はなかった」と語ったそうです。運動は「人間らしく生きる権利を取り戻す生き方」だと言えますが、運動そのものが人間らしい生き方に思えます。

 今の生活のなかで高校生のころと同じ活動はなかなかできないと思います。限られたなかでできることといえば、まずは「知る」ことだと思います。過去のできごとや現在の世界の流れ、そして本当のことは何なのか。幸い「しんぶん赤旗」は核兵器廃絶や憲法9条の問題についてはとても的確で、しかも載っていない日がないというくらい毎日取り上げています。ぜひ読んでみてください。この「知る」ことの積み重ねは将来必ず生きてくると思います。

 そして、あなたの平和への思いをぜひ周りの人に伝えてください。その思いは人を変える力があります。実際、この相談を読んだ読者はあなたの平和への思いにきっと励まされていますよ。


第41代日本ウエルター級チャンピオン 小林 秀一さん

 東京工業大学卒。家業の豆腐屋を継ぎながらボクシングでプロデビュー。99年新人王。03年第41代日本ウエルター級チャンピオン。


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