2009年1月5日(月)「しんぶん赤旗」
マスメディア時評
危機の時こそ底に迫る論評を
「百年に一度」といわれる深刻な金融・経済危機のなかで、新年を迎えました。大企業の利益優先で弱肉強食の新自由主義と「構造改革」路線の歴史的破綻(はたん)を前に、各新聞の新年の社説も、これまで多くが支持してきた路線の破綻を、多かれ少なかれ認めざるをえなくなっているのが特徴です。
人間「使い捨て」反映は明らか
なかでも目立ったのは、「人間主役に大きな絵を」(「朝日」)、「人に優しい社会を」(「毎日」主筆)、「人間社会を再構築しよう」(「東京」)などと、人間が大切にされる社会の回復を論じるものが少なくなかったことです。東京以外で発行される地方紙でも、「人を粗末にしない社会に」(「北海道」)、「『人』を基軸に日本の再生を」(「京都」)など、共通した傾向がみられます。
これも今日の日本社会が、新自由主義的な「構造改革」路線がもたらした貧困と格差の拡大や、「派遣切り」「期間工切り」などといわれる急激な雇用の破壊によって、人間らしい生活や雇用が保障されない、文字通り人間「使い捨て」の社会となっていることを、反映しているのは明らかです。
「人間や社会の調和よりも、利益をかせぎ出す市場そのものを大事にするシステムの一つの帰結」(「朝日」)、「新自由主義・市場原理主義の象徴だった米国型金融ビジネスモデルの崩落が、世界を揺るがせている」(「読売」)、「市場原理主義と競争社会に傷つき倒れる人が続出した」(「東京」)―これらの指摘はいずれも、今日の事態を浮き彫りにしています。
地方紙の社説でも、「わたしたちの社会は『格差』から、もはや『分断』の様相を見せているといっても決して大げさでない」と指摘し、「もはや、上位層が富めば中下層にもおこぼれがあるはずだ、というトリクル・ダウン論は破たんした」と告発した「北海道」の主張などは、実感そのものでしょう。
「人間社会は弱者が救われるだけにとどまらず、ふつうの人々が安心し恩恵を受ける社会でなければなりません。人間が部品扱いされる労働システムや法は変えられるべきですし、(中略)貧困問題などあってはならないことです」(「東京」)。こうした社説の指摘は、ほとんどの人が共感しうるものではないでしょうか。
にもかかわらず問題なのは、そうした人間としてあたり前の感情からもう一歩踏み込んで、新自由主義の破綻がもたらした経済と暮らしの危機からどう抜け出していくのか、打開の道がほとんど見当たらないことです。まさに、マスメディア自身、方向喪失状態に陥っているといわれても仕方がありません。
たとえば「新自由主義」の「大破局」を指摘する「朝日」も、日本で新自由主義的な「改革」を極端なまでに推し進めた小泉「構造改革」については、「古い日本型の経済社会の構造がそれなりに効率化され」たが、「同時に現れたのは思いもしなかった現実」だったと、いまだにあいまいな態度です。
小泉「構造改革」路線が今日の事態を招いたことは明らかなのに、いまだにそこに片足を置いたままの「朝日」の社説は、「大きな絵」という言葉とは裏腹に、結局のところ楽観も悲観もするなと心構えを説くだけにとどまり、「たくましい政治」をなどと政治に丸投げするものに終わっているのです。
「新自由主義の崩落」を指摘する「読売」も、内需拡大のために個人の金融資産を活用せよというだけで、国民の生活を痩(や)せ細らせたまま自動車や電機など輸出大企業を支援してきた外需依存の路線については口をつぐんでいます。「日本版『緑のニューディール』を」と、アメリカのオバマ新政権に右へ倣えして内需拡大を求めている「毎日」も同じです。
これにたいし「日経」は、「市場を信頼し自由競争を重んじるこの保守主義の政策」が危機を招いたとするのは「正しくない」、問題は「適切に運営しなかった点にある」と、引き続き新自由主義的な「改革」を推進する立場です。深刻な貧困と格差の拡大や雇用破壊の現実を見ればこうした言い分はもはや通用しませんが、「日経」の大企業の利益を擁護する立場だけは鮮明です。
打開の方向性示すことこそ
人間「使い捨て」の社会を根本から転換し、人間らしい生活や雇用を取り戻すためには、何よりも新自由主義路線、「構造改革」路線をやめさせることが不可欠です。マスメディアがいくら人間を大切にといっても、そこまで底に迫って論じなければ責任を果たしたとはいえません。
ジャーナリストとしても、研究者としても大きな仕事を残した新井直之(故人)が、「いまジャーナリズムがしなければならないのは、時代の正体を的確に摘出し、日本はどのような方向に進みつつあるのか、を正しく民衆に提示すること」と、のべたことがあります(著書『ジャーナリズム』で)。
マスメディアの論評にいま求められるのも、こうした時代の「大状況」を読み取り、国民に危機打開の方向性を示す、骨太の議論なのではないでしょうか。(宮坂一男)