2008年8月9日(土)「しんぶん赤旗」
経済時評
スポーツの発展と資本主義
いよいよ北京オリンピックが開幕しました。今年の夏は、オリンピックのニュースに加えて、さまざまなスポーツにかんする話題がお茶の間をにぎわしています。
北京オリンピックの各競技の選手の決定、スピード社の水着問題、テニスの伊達公子選手のプロ復帰、野茂英雄投手の現役引退、イチロー選手の三千本安打など、新聞の一面をスポーツのニュースがかざっています。
現実のスポーツ・ニュースだけでなく、TVドラマでも、野球の「バッテリー」、女子プロボクシングの「乙女のパンチ」、いじめを乗り越えたチャンピオン「内藤大助物語」など、感動的なスポーツ物語が花盛りです。
「資本の文明化作用」とスポーツの発展
スポーツの発展過程を調べてみると、近代スポーツの発展と資本主義の発展とは、たいへん深い関係があることがわかります。
現在われわれが楽しんでいるスポーツ、たとえばサッカーやテニスなどは、その起源をたどれば中世にさかのぼれますが、現代的なルールをもつようになったのは、英国の産業革命以後のことです。十九世紀の後半に、労働者階級のたたかいで労働時間の短縮がすすみはじめてから、スポーツが急速に勤労者のなかで普及するようになりました。
ヨーロッパで起こったスポーツに加えて、十九世紀末には米国でバスケット、バレーなどの新しい球技が盛んになります。米国で生まれた野球は、早くも一八七六年に最初のプロ球団と大リーグが発足しています。
二十世紀に入ると、スポーツはますます大衆化するとともに、国際的な競技会が定期的に開かれるようになりました。近代オリンピックは一八九六年から、サッカーのワールドカップも一九三〇年から始まっています。
陸上競技や水上競技の世界記録も、この百年間に目覚ましく進歩しました。欧米に起源を持つスポーツだけでなく、たとえば日本の柔道、韓国のテコンドーなど、多様な国の競技がオリンピックの公式種目になりました。
一九六〇年からは、オリンピック開催年に、パラリンピック(国際障害者スポーツ大会)も開かれるようになります。これは、スポーツはあらゆる人びとの権利であるということを示す画期的なことでした。
このように資本主義の時代にスポーツが大きく発展した背景には、先に述べたように、労働者階級の時短による余暇(自由時間)の拡大がありますが、その深部では、マルクスの言う「資本の文明化作用」(注)が働いているとみることができるでしょう。
「資本の文明化作用」とは、人類史的視野からみると、資本は、人間を交換価値の世界に巻き込むことによって、人間の潜在的能力や消費欲望を開発し、人間の多面的可能性を発展させることを意味します。
「文明化」と“反文明化”のせめぎあい
ところが二十世紀後半になると、スポーツの普及とともに、スポーツ・ビジネスという新しい産業が発展するようになりました。
スポーツを楽しむためには、国民の余暇時間とともに、用具や施設が必要です。スポーツ人口が世界的に増大すればするほど、スポーツ用品や施設の需要が爆発的に拡大します。
プロ・スポーツの発展は、見せるスポーツの隆盛をもたらし、さらに巨額なテレビ放映権問題も生まれてきました。北京五輪の場合、一説では、放映権収入は二千六百億円にものぼると伝えられます。「オリンピックの商業化」が問題になり、スポーツ界が資本の利権と結びつく機会も増えてきました。
選手のなかでも、お金とからんだ不正や禁止薬物使用(ドーピング)が広がり、金メダルを剥奪(はくだつ)される事例まで出てきました。現代の資本主義のもとでは、「資本の文明化作用」とともに、いわば“資本の利潤至上主義による反文明化作用”とでもいうべき影響がスポーツの世界にも広がってきています。
二十一世紀のスポーツは、「資本の文明化作用」と“資本の反文明化作用”の激しいせめぎあいのもとで、スポーツを愛する世界の諸国民の力に支えられて、新たな発展の道を歩みつつあるといえるでしょう。
ちなみに、スポーツを人類文化の問題として明確に位置づけて、スポーツ政策を積極的に提案しているのは、日本の政党のなかでは日本共産党だけです。党綱領でも、次のように明記しています。
「文化各分野の積極的な伝統を受けつぎ、科学、技術、文化、芸術、スポーツなどの多面的な発展をはかる」
日本共産党がスポーツ政策を持つことができるのは、人間の全面的発達にとってのスポーツのもつかけがえのない役割を重視し、スポーツの発展と資本主義の発展との関係を深く科学的にとらえているからです。(友寄英隆)