2008年8月6日(水)「しんぶん赤旗」
東京満蒙開拓団
農民訓練所あった
失業者ら中国に送り出す
実像の一端判明
「都会の失業者や中小商工業者たちを満蒙開拓団として送り出すために、東京に『農民訓練所』があった」―。東京都から送り出された満蒙開拓団の実像の一端が、「東京の満蒙開拓団を知る会」の調査で明らかになりました。
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「大田・平和のための戦争資料展」(九日―十一日、大田区民ホール「アプリコ」)で発表されます。
東京にあったのは、「多摩川農民訓練所」。「失業して転落した青年、ルンペンになった独身青年を一定の期限で軍隊式に団体訓練して秩序だった移民団を満州に送ろう」と一九三四年に当時の東京府が計画。大田区矢口町に平屋建てと二階建ての三棟をつくりました。
直接指導に当たったのは、救世軍、上宮教会、修養団の三団体。一日中、農園で働き、農業技術や農業経営を学びました。期間はほぼ六カ月。一九三九年六月に「女子拓務訓練所」に変更し、男子は東京都日野市の「七生訓練所」に移転しました。
同「知る会」の調査によると、一九三二年から一九四五年までに東京から、二十一の開拓団と満蒙開拓青少年義勇軍が中国東北部に送り出されました。
東京から出た開拓団員総数は、『満州開拓史』によると、九千百十六人、青少年義勇軍千九百九十五人、計一万一千百十一人に上ります。その数は全国で九位。調査に当たった「知る会」の今井英男さん(63)は「初期は失業者でしたが、戦争経済の破たんにより、中小商工業者が没落し、満州に大量に送り出されました。一部しか分かっていなかった東京開拓団の実態がわかってきました」と話しています。
「開拓団が送り出されたときはもてはやされたのに、敗戦になると一転して冷ややかな目で見られました」と、「知る会」の多田鉄男さん(59)はいいます。「そのために東京の開拓団の全容については語られてきませんでした。戦争体験を風化させずに、地域から掘り起こし、侵略戦争の全体が見えるようにさらに調べていきたい」と話しています。
戦争資料展では、「農民訓練所」の展示のほかに九日午後三時から中国帰国者の会名誉会長の鈴木則子さんが開拓難民として逃避行した体験を語ります。
満蒙開拓団 一九三一年の「満州事変」以降太平洋戦争までの期間に、日本政府は、「五族協和・王道楽土」のスローガンの下に国策として農業従事者を中心に移民団を結成。中国東北部(旧満州)に送り出しました。一九四五年までに送り出した開拓民は、「満蒙開拓青少年義勇軍」と合わせると約三十二万人といわれます。一九四五年八月、ソ連が参戦すると日本の関東軍は、開拓民をソ連との国境地帯に置き去りにしました。開拓民は、日本に土地を奪われた中国農民やソ連軍の攻撃にあい、さらに飢えと病気に襲われて約八万人が亡くなりました。
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