2008年5月20日(火)「しんぶん赤旗」
四川大地震1週間 都江堰市ルポ
慟哭(どうこく)と連帯と
校門くぐると、死臭・消毒薬・線香のにおい
“日本に知らせてほしい” 懸命に語る被災者
【北京支局】中国四川地震から一週間たった十九日、中国は全土で三日間の「哀悼期間」に入り、地震発生時刻の午後二時二十八分に全国で黙とうが行われました。列車、バス、タクシーなどほとんどの交通機関も同時刻に警笛を鳴らして地震の犠牲者をしのびました。公共機関や学校はこの三日間は半旗を掲げています。
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【都江堰(中国四川省)=山田俊英】四川省大地震から一週間たった十九日、大きな被害を受けた都江堰(とこうえん)市に入りました。地震発生時刻の午後二時二十八分、サイレンが鳴り響き、避難民のテントでも路上でも市民が黙とう。高速道路でもいっせいに停車し、三分間にわたってクラクションを鳴らし、三万を超える死者を悼みました。
子も家も
九百人が生き埋めになった聚源中学・高等学校では親たちががれきの山となった校舎の前で、声を上げて泣きながら「紙銭」を燃やしていました。死者が無事にあの世へ行けるよう紙幣を燃やすのが中国のとむらいの習慣。「紙銭」は紙幣の代わりです。
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「歌と踊りの好きな子だった。こんなことならここに来るんじゃなかった」と陳群芳さん(45)。ダム建設のため以前住んでいた村から移住してきました。中学二年生の長女を亡くしました。「家も子どももなくした。これからどう生きていけばいいの」
趙小富さん(38)は高校三年生の娘さんの大きく引き伸ばした写真を掲げて、声を張り上げました。
「救援が遅い。建物もぼろだ。改築するという話だったが、外装をきれいにしただけだ」
確かに街中のビルは壊れていますが、まったく倒壊してしまったのはこの学校のまわりではここだけです。
まだ行方不明の生徒が数百人いるはずですが、救援隊は絶望と判断し既に引き揚げています。校門をくぐると、死臭と消毒薬と線香の入り混じったにおいで頭がくらくらします。
生存10人
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市内のバス停にいた馬懐元さん(54)は郊外の浦陽鎮で被災し、家は倒壊。自宅近くにテント小屋を作って避難しています。この日は知人の安否を確かめるためバスで出てきました。鎮(村)では八割の家が倒壊。中学校も倒壊し、四百人中十人しか助かりませんでした。
「家の再建をどうしたらいいのか、政府から明確な回答がほしい。私はいまの家を建てるのに財産を使いきってしまった。自分で建て直すのは無理だ」
途中から「私の話も聞いてほしい」と若い女性が加わりました。働いていた広東省深圳(しんせん)市から家族救援のため戻ってきた李梅さん(29)です。母親を亡くしました。逃げる途中、くずれてきたれんがで強打されたといいます。
「親族には八十歳代が二人、六十歳代が六人。避難所では毎日一人あたり水三本、カップめん三個をくれるが、老人たちはもうカップめんがのどを通らない。年寄りが食べられるものがほしい」と訴えます。
市内の経済開発区では路上にテント村を設けて避難民を収容しています。現在四千人がいます。食事は救援物資のほか、近くの農家による炊き出しでまかなっています。
六階建てのアパートが危険で住めなくなって避難してきた労働者、熊茂勝さん(55)は「食事、水、トイレを提供してくれて政府には感謝している。早く家がほしい。テントでは雨が降れば雨漏りする」とここでも切実なのは住宅です。
この避難所を運営する都江堰経済開発区ではプレハブの仮設住宅を建設中です。
同区の担当者は「いまのところかぜ、下痢の人があわせて三人。被災者の健康状態はそれほど悪くありません。食料は足りています。心配は薬です。いまボランティアが持ってきてくれたものに頼っているがいつまで続くか」と語ります。
タクシーで移動途中、「そこまで乗せてほしい」とヘルメットをかぶった作業服姿の男性が乗り込んできました。省内の他市から来たボランティアでした。「がれきに埋まっている人を捜索しています。いてもたってもいられません」と、目的地に着くとあわただしく降りていきました。
取材なら
それにしても被災者の優しいこと。テント村で年配の女性は記者(山田)が帰ろうとすると「遠くから来てくれたのだから」とミネラルウオーターを一本、くれようとします。街なかで体験を話してくれた女性は記者が移動のため自転車タクシーと値段の交渉を始めると、「この人は取材なんだから安くしなさい」。タクシーの運転手は「取材ならもうけはいらない。経費分だけ払ってくれ」。話したくないほどの苦しみのはずですが、「日本に知らせてくれるなら」と懸命に話してくれます。
いま中国は国をあげてかつてない悲しみを乗り越えようとしています。