2007年8月29日(水)「しんぶん赤旗」

常磐炭鉱の人々から慕われた山代吉宗とは?


 〈問い〉 福島県出身で戦前、獄死した山代吉宗という人はどんな人ですか?(福島・一読者)

 〈答え〉 日本共産党の85年にわたる歩みには、未来を信じてこの党に入り、さまざまな分野の活動で党を支え、ときにはたたかいのなかで命をささげた無数の党員によってきずかれた歴史が刻まれています。

 終戦の年1945年1月14日、44歳で広島刑務所で獄死した山代吉宗(やましろ・よしむね)も、そんな一人です。

 吉宗は1901年、福島県石城郡磐崎村(現・いわき市)の炭鉱に生まれ、明治大学を卒業後、父の後を継いで小野田坑の飯場頭(かしら)になります。相次ぐ坑内事故と低賃金にあえぐ炭鉱労働者をみて、吉宗は、子どもたちを集めての少年会や青年労働者たちの勉強会をして、労働者の生活を守るために奔走、27年の健康保険組合の委員選挙で労働者の支持を集めて当選します。しかし、会社は吉宗を解雇し、労働者に温情的だった山代飯場を解散させようとしました。これを契機に、労働者は「山代解雇撤回、飯場制度廃止、賃金値上げ」を掲げ、争議日数35日間、争議参加1039人、解雇者15人、検束300余人となった「磐城・入山炭鉱大争議」を起こします。争議は、右派幹部の妥協で終わり、吉宗は炭鉱を追われます。

 吉宗は同年9月、普通選挙による最初の県議選に労農党から立候補(県当局の策謀で立候補を無効とされ、得票もヤミにほうむられた)、翌28年3月には伊達郡内の製糸場争議を支援中に逮捕されます。その後、茨城県に移り、日立製作所や日立鉱山で活動。29年3月ころ、日本共産党に入党しました。しかし、同年4月16日に吉宗は検挙され、秋田刑務所に6年間、投獄されます。35年、出獄した吉宗は、京浜工業地帯に行き、春日正一らとともに、「労働雑誌」の普及や男女の青年労働者たちの啓蒙(けいもう)活動をします。

 40年5月、また検挙され、広島刑務所に送られます。寒い独房のなかで、極度の衰弱により死去する4日前、妻の山代巴(『荷車の歌』などで知られる作家)にあてて、「もうすぐ春です。元気で、元気で春を待ちましょう」と手紙を書いています。

 『光と風の流れ・山代吉宗の道』(いわき地域学会図書)の著者、呑川泰司氏は「朴とつでぽつりぽつりと語りかける演説、みずからも坑内に入って働く姿が人びとの信頼を呼んだ。子がいなかった彼は近所の子らを愛し、遊んだ。吉宗の面影が多くの人びとの口の端に長く伝わったのはこのためだと思う」と言っています。

 福島県いわき地方には、山代のほか、敗戦前の44年に特高の拷問によって病死した日本共産党員・吉田寛、33歳で獄死した小野源之助、全協オルグ(宣伝組織者)の大井川基次、詩人・波立一(はりゅう・はじめ)、同・中野大次郎、労働運動家・松島清美ほか、弾圧で倒れた少なくない先覚者がいます。(喜)

 〔2007・8・29(水)〕


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