2007年7月11日(水)「しんぶん赤旗」
治安部隊がモスク制圧
武装勢力指導者ら多数死亡
パキスタン
パキスタン軍は十日午前四時(日本時間同八時)ごろ、武装したイスラム過激派や神学生らが立てこもっていた首都イスラマバードの「赤いモスク(イスラム礼拝所)」に対する制圧作戦を開始、軍特殊部隊などが突入し制圧しました。内務省高官はロイター通信に対し、モスク指導者のアブドル・ガジ師が死亡したと語りました。
軍スポークスマンによれば、戦闘で武装勢力側の約五十人と兵士八人が死亡。同勢力側は依然として近くの女性マドラサ(神学校)などで抵抗しているもようです。
ムシャラフ大統領は政情不安が続く中、内政上の最大の脅威の一つであるイスラム過激派に厳しい姿勢を示しました。
軍はモスク施設の地下や洗面施設で抵抗を続けていた武装勢力を排除し、これを制圧。さらに、モスクから約二百メートル離れた女性マドラサ「ジャミア・ハフサ」で制圧作戦を展開しました。
軍・特殊部隊は作戦開始後、モスク敷地内でロケット砲を含む激しい銃砲撃を受けました。
軍スポークスマンによると、女性マドラサには多数の部屋があり、武装勢力が部屋を移動しながら抵抗。一部が地下の部屋に女性や子どもを「人質」にして抵抗を続けているといいます。
民間テレビは死者約百人と伝えており、軍スポークスマンは「これは最終的な作戦行動だ。多大な犠牲が出ることも予想される」と語りました。一方、「人質」とみられる女性二十四人と子ども約三十人が制圧作戦開始直後にモスクを脱出、無事保護されました。
フサイン元首相を団長とする政府の交渉団が九日夜、モスク指導者のアブドル・ガジ師との間で女性や子どもの解放交渉をしましたが、不調に終わっていました。
ろう城した勢力は
特殊部隊が突入した「赤いモスク(イスラム礼拝所)」と付属の神学校(マドラサ)に立てこもっていた武装神学生らは、反社会的な行動をとって年初から当局との対立を強めていきました。
学生らは、イスラマバードで不法に建設されたモスクを当局が取り壊そうとしたことに対抗し、隣接する児童図書館を占拠。また音楽CD店に閉店を強制したり、マッサージ店の中国人女性従業員を拉致したりしました。こうしたなかで三日、学生たちが警官を襲撃し、治安部隊との衝突となりました。
「赤いモスク」は、四日に逮捕された最高指導者アブドル・アジズ師の父が一九六〇年代に設立。九〇年代にアジズ師が引き継ぎました。
ソ連がパキスタンの隣国アフガニスタンに侵略していた八〇年代、米国の支援を受けたパキスタンの情報機関と軍は、対ソ連との「聖戦」をたたかうイスラム戦士を支援。当時から「赤いモスク」は、学生がイスラム急進主義を学ぶ場となってきました。九〇年代にアジズ師は国際テロ組織アルカイダと接触したといわれます。
二〇〇一年九月十一日、米同時テロが発生。パキスタンのムシャラフ政権が米国のアフガニスタン戦争、「対テロ戦争」支持を表明したのちに、「赤いモスク」は対米「聖戦」を支持し、ムシャラフ大統領を非難するようになります。ムシャラフ大統領暗殺も呼びかけ、未遂に終わったとされています。
アジズ師の弟で聖職者アブドル・ラシド・ガジ師は、立てこもりを続けるなかで、「投降しなければ殺害する」との政府の警告に対し、「殉教を選ぶ」と述べ、「自らと仲間の死がイスラム革命の火付け役になる」と話していました。
「赤いモスク」は、アフガン国境の部族地域と強い結びつきがあります。神学生も部族地域出身者が多いとされます。ロイター通信は九日、指名手配中の部族地域指導者が「赤いモスク」への攻撃に対する報復を誓い、一万人以上の部族民が「聖戦を」「アメリカに死を」と叫んだと伝えています。
なお、軍の将校などがロイター通信に話したところでは、「赤いモスク」に立てこもった武装勢力の一部は、国際テロ組織アルカイダとつながりがあります。五、六十人の中核部隊が特殊部隊との戦闘を指揮しました。武装勢力は、自爆攻撃のための爆弾を装備したチョッキを配り、モスクを脱出しようとした学生を銃撃さえしたといいます。(小玉純一)