2007年4月23日(月)「しんぶん赤旗」
列島だより
緑の資源
地域おこしに生かす
小さな町や村が、地元の緑の資源を生かしてまちづくりに励んでいます。人口増や雇用確保、産業おこしにもつながり、活気づいています。
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生態系守る有機農法に力
照葉樹林
宮崎 綾町
10%が移住者
綾町(あやちょう)は宮崎平野の西北端にあり、後ろに九州脊梁地(せきりょうち)が控えるいわゆる中山間地です。かつては「夜逃げの町」と言われたこともある過疎地域でした。現在では周辺の町村が人口減少に悩むなか、綾町人口の約10%が都市部から移住してきた人たちで占められます。先日綾町の区長会を傍聴する機会がありましたが、区長さんの中にも移住者がおられました。
綾町が「夜逃げの町」から「活気の町」に変貌(へんぼう)した経緯を探ってみることにしましょう。
綾町は豊かな照葉樹林に囲まれた文字どおり山紫水明の地であり、綾織りなど伝統技能を含めた工芸の町であるとともに、とりわけ有名なのは町ぐるみの有機農法です。
自然農法、有機農法など化学肥料や農薬類に頼らない農業技術を指向する動きは古くからありましたが、これらの中には科学的根拠に乏しい神がかり的なものまで含まれており、広く普及するには至りませんでした。昭和五十一年(一九七六年)、綾町は「綾町自然生態系農業の推進」という施策を掲げました。自然生態系農業という言葉が広く使われるようになったのは、これ以降です。
この施策は十数年の蓄積をへて、昭和六十三年(八八年)、全国に先駆け「自然生態系農業に関する条例」を制定するまでに発展し、自然生態系農業の展開に大きく寄与することになりました。
昔は焼き畑が
綾町を含む九州脊梁地帯はかつて焼き畑が盛んに行われた地域です。自然の法則を巧みに利用する焼き畑農法は本来自給自足農業に対応した技術であるため、人口が増え農産物が商品化する社会変化のなかで衰退していきました。農薬、肥料、除草剤を全く使わず、潅水(かんすい)さえしない焼き畑農法は文字通り自然生態系農法です。綾町で自然生態系農業という発想が生まれた背景には遠い焼き畑の残光があったのではないかと思います。
市場経済優先の近代農業技術では作物の栄養を化学肥料に、生産環境を農薬や除草剤に頼るのが効率的です。その結果、農産物の栄養バランスを崩し環境汚染を招いているのです。農産物と環境の安全性を考える農民は決して少なくありません。しかし、農業と農民を圧迫する現行農政のもと、農家の生活を維持するためには経済効率を無視することができないのも事実でしょう。
本来自然に依拠する生産である農業の産物を工業製品と同じように市場経済原理に委ねることに無理があります。国民が安全な農産物と快適な環境を享受するためには農業の生産性をある程度犠牲にする度量が必要です。
具体的には農産物、たとえばコメの値段が百五十グラム(一日一人あたりコメ消費量)で四十五円というのは安すぎるということです。
経済効率至上の今日、綾町へ移住した人たちの中には安全な食料の生産と環境保全を指向する自然生態系農業を提唱した綾町の姿勢に共鳴した人が少なくありません。綾町が移住者のパワーを最大限に活用しさらに発展するであろうと期待するものです。藤原宏志(みやざき住民と自治研究所理事長、元宮崎大学学長)
照葉樹林 常緑広葉樹を主とする樹林。西日本一帯から中国雲南省、ヒマラヤ中腹にかけて見られます。生育地は狭く、綾町の大規模な樹林(カシ、シイ、ヤマツバキ、ヤマツツジなど九十種以上)は最大規模といわれています。綾町はこの樹林に密着した有機農法を推進しています。
村の自然込め全国へ直送
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ユズ
高知 馬路村
高知県馬路村(うまじむら)といえばユズづくりと加工品生産販売の村。同村の馬路村農業協同組合(東谷望史代表理事組合長、六百六十二人)は、現在、三十八種類のユズ加工品を製造販売しています。四月中旬、三つ目のユズ加工場を訪問しました。
オートバイで国道55号から県道12号に入り、川沿いに北上すると同村の中心部。面積の96%が山林の同村には千百十四人が住んでいます。
清流・安田川沿いに雑木林の「ゆずの森」がありました。馬路営林署(一九七九年に廃止)の貯木場だった所です。森の奥の加工場は地元産の杉をたっぷり使った鉄筋二階建て、四千四百七十五・一二平方メートル。従業員は、約七十人です。
二階に上がってびっくりしました。パソコン、電話をおいたデスクに向かい合う女性が十四、五人。受注センターです。大都会のオフィスのようです。メールや電話、封書での通信販売の注文に応じているのです。
自動のラインではユズ飲料「ごっくん馬路村」(原料はユズ、はちみつ、水)ができあがっています。手作業の荷造りセンター、発送のトラックターミナルもあります。
売上げ33億円
同農協のユズ加工品の年間の売り上げは三十三億四千万円(二〇〇六年度)にのぼっています。
加工場を案内してくれた同農協営農販売課広報担当の菊池史香さん(25)に同農協の「いまの課題は?」と聞きました。
「全国の食卓にユズの製品が浸透してきて、加工原料のユズが足りなくなっていることです。これから数年かけて山を切り開いてユズの畑をつくる予定です」
同村のユズ加工製品が好評な要因を、菊池さんが教えてくれました。
一つは「やっぱり商品の質の良さです。有機栽培に準じて育てた香りのよいユズの加工品、おいしいですよ」。
もう一つは「馬路村の良さ、自然、田舎っぽい子どもたちの顔、農業をする『おんちゃん』とかを、そのまま売り出したことがよかった。商品を生み出した村という背景を出したことが、ふるさとを懐かしがる都会の人に受けたのだと思います。田舎の空気感が付加価値になりました」。
「村をそのまま」といえば「ごっくん馬路村」のCMソング「ごっくん馬路村のうた」(作詞・作曲・小松秀吉)も、こう歌っています。
「♪馬路の笑顔 みんなにあげる」「♪馬路の自然をみんなにあげる」「♪馬路まるごとみんなにあげる」
東京から青年
同農協の職員には、村外から同村にやってきたIターンの人が目立ちます。二〇〇四年から現在までに、十三人(二十歳代、三十歳代)がIターンして同農協の職員になっています。前出の菊池さんも、その一人です。
「東京の大学四年生の時、インターネットで、ここが職員を急募していることを知りました。『中山間地のどこにでもあるような村なのに元気に見えるのは、いろんなアイデアを持った面白い人がいっぱいいるからに違いない』と思いました」
「面白い人? いっぱいいました」
全国で馬路村ファンが増え、同村に遊びにくる人が増えています。
同農協では、来訪者が憩える場所として「ゆずの森」を整備中。農協職員たちが重機を使って小川をつくり、土を盛り、雑木を六百本以上植えました。数年したらすてきな森になる予定です。中四国総局 藤原義一
馬路村のユズ加工事始め
馬路村は、かつては2つの営林署がある林業の村で、森林鉄道が走っていました。しかし、外材の輸入が多くなり林業が下火に。林業中心だった地元の人たちは新たな道を探しました。1965年、約10人の村民がユズ栽培を始めました。無農薬で粒がそろわなかったことから加工に踏み出しました。始めはユズ酢の一升瓶の出荷でした。