2002年12月23日(月)「しんぶん赤旗」
二〇〇三年大相撲初場所の番付が二十四日に発表されます。しかし、「大相撲は大丈夫なの?」――最近大相撲ファンからこんな声が聞かれるようになりました。長引く横綱貴乃花の故障、相次ぐ休場力士、淡泊な相撲内容などで相撲離れが続いているからです。人気を測るバロメーター、入場者数も減ってきています。現状や課題を探ってみました。
先の九州場所では二横綱二大関など六人が休場しました。魁皇、千代大海など地元出身力士が相次いで途中休場、地元ファンをがっかりさせました
すさまじかったのが七月の名古屋場所。幕内、十両合わせて十六人もの力士が休場しました。(再出場含む)
二〇〇二年の幕内での決まり手で、「不戦勝」が二十二番にもなりました。記録を調べてもこれだけ多かった年は見当たりません。
こんなこともあって観客はガタ減り。「満員御礼」のたれ幕は急減、九州場所は一日として掲げられませんでした。
原因として多くの専門家が指摘するのが体の大型化と、けいこ不足です
大きな体で激しくぶつかり合う相撲にけが、故障はつきものといえます。しかし、最近の故障は大型化を抜きには考えられません。
年と主な特徴
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平均体重
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1909年(明治42年)5月場所 ※国技館が常設館として開館 |
99.3キロ
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1943年(昭和18年)1月場所 ※横綱双葉山全勝優勝 |
110.5キロ
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1967年1月場所 ※横綱大鵬全勝優勝(柏鵬時代) |
121.63キロ
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1987年1月場所 ※横綱千代の富士20回目の優勝 |
142.6キロ
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2002年11月場所 ※モンゴル出身朝青龍初優勝 |
155.28キロ
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「体重の変化」の推移を見てください。いまだ破られていない六十九連勝という大記録を作った横綱双葉山が活躍していた一九四三年ごろの幕内平均体重は110・5キロ。大鵬や柏戸などが活躍した六七年ごろでも120キロを少し超えた程度でした。それが現在では155キロを超えてしまっています。
けいこ内容も大きく変化してきています。筋力トレーニングを取り入れる力士が増える一方で、シコ、すり足、テッポウなどの基本げいこが弱くなっているといわれます。さらに「パワー重視の突き押し相撲が中心で、粘り腰や柔軟性を鍛えるけいこがほとんどおこなわれていない」と指摘する人もいます。
いまから四十三年前と現在では相撲内容が大きく変化し、”手に汗をにぎる力相撲”が少なくなっています
「決まり手」を比較して見るとそれがわかります。
一九五九年は栃錦、若乃花などの全盛期であり、内掛けの名人といわれた琴ケ浜、低くセンってまわしを取り出し投げを繰り出して「セン航艇」のニックネームをつけられた岩風、もろ差しの名人・鶴ケ嶺、”褐色の弾丸”といわれる激しいぶちかましで知られた房錦など、個性力士があふれた時代です。
寄り切り、押し出しの決まり手は当時もいまも一、二位ですが、変化を象徴するのが「つり出し」「うっちゃり」です。五九年当時つり出しが七位、うっちゃりが九位と、ともにベストテンに入っていますが、現在は激減。今年はともに三番だけでした。
つり出しは上背と強靭(きょうじん)な腕力や背筋力、足腰がなければできない技です。うっちゃりは土俵際に追いつめられながら相手の体を左右に投げ捨てるもので、粘りを象徴する逆転技です。
その一方で現在は「はたき込み」(三位)「引き落とし」(四位)など一瞬の変化や引き技が上位を占めるようになってきています。
今日の危機的な状況を打開するためにいま必要なことは何か。相撲関係者やOBらは、力士、師匠、相撲協会が一丸となって改革に取り組むしかないと指摘します
そのために共通して挙げられるのが、けいこ量を増やすこと、基本げいこを重視することの重要性です。
作家で元力士の小島貞二氏は「攻防が少なくなった最大の原因は体が大きいばかりで、けいこ量が足りないことが大きい」と指摘します。
巡業におけるけいこのあり方を改善していくのが急がれている、と強調するのは相撲評論家の三宅充氏です。一九五七年以降、協会全体でおこなう大型合併巡業になってからはけいこ量が激減。「やる力士でもせいぜい十番前後、中には一、二番で終わってしまう力士さえいる。今のような巡業の内容、日程を根本から見直し、部屋別にキャンプをやれるようにするなどけいこの環境を抜本的に改善しなければ、巡業がけいこの場にならない」と強調します。
本紙で相撲総評をおこなっている湊広光親方(指導普及部員・元小結豊山)は、食生活改善の大切さを強調します。
「魚や野菜を十分取るなどバランスの取れた食生活が、けがをしない丈夫な体を作るうえで欠かせない」といいます。
相撲のルーツは定かではありませんが、相撲の原型と思われる記述が文献に最初に登場するのが『日本書紀』。西暦三〇〇年七月七日、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が”争力(ちからくらべ)”をした、というくだり。しかし、史実的記録ではないため、伝説、伝承の域を出ません。
平安時代には相撲節会として宮中の行事に加わります。鎌倉時代になると、相撲は戦場における組み打ちの鍛錬に最適とみなされ、武士の間で奨励されるようになっていきます。儀式から実戦用の武術へと変ぼうを遂げていったのです。
その後、プロの力士も生まれるなど、相撲は江戸時代にかけて勧進相撲として江戸、京都、大坂などで盛んにおこなわれます。
江戸時代は大名や旗本の庇護(ひご)のもとにあった相撲も、明治維新を経るなかで、「野蛮な遊戯」で文明開化にそぐわないとの排撃論もおこります。こうした苦難を経て一九二五年、勧進相撲の流れをくむ東京相撲と大阪相撲が合併。いまの日本相撲協会の前身、大日本相撲協会が誕生しました。