2002年12月3日(火)「しんぶん赤旗」
二日の十二月定例県議会で、島根県の澄田信義知事が中止を正式に表明した宍道湖(しんじこ)・中海淡水化事業。四十年間の住民の「草の根」の運動と日本共産党の活動が政治を動かし「干拓・淡水化」事業に完全な終止符がうたれました。
「ようやく完全中止となり、ほっとしています。全国の知人に協力してもらった署名三千五百人の願いが実現しました。あとは中海の堤防を切り、岸辺にアシなどを植えることが必要です。水質はよくなり漁業は復活します。共産党が計画当初から反対されていたことは尊敬しています」
松江市の主婦、塩冶美栄子さん(79)はこう喜びを語りました。
澄田知事は、宍道湖・中海周辺の淡水化受益地にたいする農業用水の確保は可能になったとして「宍道湖・中海の淡水化は中止することが適当である」と提案しました。
宍道湖・中海干拓淡水化事業は本体工事に着工して約一年後の一九七〇年には、国の減反政策が始まり、農地造成の目的は失われます。しかし、自民党の竹下登衆院議員(元首相、故人)は、「農業生産基地」の形成と「工業開発の推進」を主張、事業は継続されていきました。
七〇年代から八〇年代にかけて、アオコの発生など水質の悪化が問題になります。中海での干拓堤防の建設によって潮の流れが大きく変化し、浄化機能が失われることによるものです。七二年には宍道湖、中海両漁協、労働組合、民主団体で「中海・宍道湖の自然を守る会」(現島根の自然を守る会)が結成されました。政党では日本共産党だけが加わり、住民とともに反対運動をすすめてきました。
この間、多くの学者、研究者が淡水化は自然環境破壊につながると指摘しても農水省、県は「淡水化すれば水はきれいになる」と固執。学者の間から批判が高まり、ついに県も中間報告の検討を著名な学者十四人にゆだねました。結論は「淡水化による水質悪化」を警告するものでした。
ヤマトシジミをはじめ七十種類を超すといわれる豊かな漁業資源や汽水(きすい)域特有の生態系がだめになる――。住民の世論と運動は大きく発展。八四年に「淡水化反対」の一点で結集した住民団体「中海・宍道湖淡水化に反対する住民団体連絡会」の署名は党派を超えて広がり、県人口の四割、三十二万人を超えました。約七百六十億円かけて干拓堤防と防潮水門などはできましたが、八八年には、ついに「淡水化延期」が決定され、本庄工区の干陸も延期されました。
九六年、知事の本庄工区の干拓事業再開要求にたいしても、署名五十四万人分を農水大臣に提出するなど、運動が広がりました。二〇〇〇年八月、本庄工区干陸は中止になりました。
中林よし子衆院議員秘書として、この問題を追及してきた日本共産党島根県委員会の吉川晴雄政策委員長は「県は先ごろ、財政破たんなので県民に痛みを分かち合ってもらうとの広告を新聞に載せたが、本庄工区だけでも県費を百六十億円以上もつぎ込んだこの事業は財政破たんの原因の一つだ。中止の決断をひきのばしてきた知事の責任は重い」と言います。
今回の事態は、島根県政を深くむしばんできた、巨大開発体制の崩壊の始まりといえます。
宍道湖・中海干拓淡水化事業 正式名称は「国営中海土地改良事業」。農地造成(島根・鳥取両県にまたがる中海の五カ所、二千五百四十一ヘクタールを干拓)と農業用水の確保(宍道湖・中海の淡水化)を目的に、農水省の直轄事業として一九六三年にスタート。しかし、水質悪化が表面化し、世論と住民運動の広がりで八八年に淡水化事業は延期。干拓事業も最大面積の本庄工区(千六百八十九ヘクタール)を残し中断、二〇〇〇年に中止されていました。
「ムダ遣いの典型がきっぱり中止になったことは、一貫して中止を求めてきた日本共産党と住民運動の成果です」
たたかいの先頭にたってきた日本共産党の中林よし子衆院議員はこう話しました。
宍道湖・中海干拓淡水化事業が打ち出された一九六三年。この事業が「昭和の国引き」と持ち上げられ、県政界やマスコミをあげて「推進」一色に染まっていました。その四月に党島根県委員会が発表した「見解」は、この事業が農業基本法に基づく大規模農業基地づくりであり、県内の圧倒的多数の中小農家をつぶし将来的には工業開発を狙うものであると指摘。「反対」の立場を打ち出しました。
その後、水質悪化問題など節々で政策提言を行い、県や農水省とも交渉を重ねました。
七九年に初当選した中林議員は、この問題で十数回にわたって質問。干拓事業の上位十社がすべて県外大手建設業者で占められ、それらの企業が自民党に多額の政治献金をしていたことを暴露。八六年には羽田孜農水相(当時)に、「淡水化試行を見切り発車しない」と約束させ、「延期」に道を開きました。
一方県議会では――。一九七一年、初の日本共産党県議が誕生。県議会での論戦が、議会の様相をも一変させました。
初の党県議だった長谷川仁さんは「共産党の考えを聞きたいと、党派を超えた新人議員の勉強会を開いたり、漁協などの学習会の講師要請もあり引っ張りダコでした」と回想します。
四十年の運動が実り、新たな局面を迎えました。県民負担の軽減や環境の保全、漁業の振興など多くの課題が残されています。
長谷川さんはこう話します。「当時も今も変わらない共産党への期待。それにこたえるためにも、必ず県議を送り出さなくてはなりません」