2002年9月14日(土)「しんぶん赤旗」
第二次世界大戦中、ソ連に併合される直前のリトアニアで、本国の指示に逆らってビザ(査証)を発給し、ナチス・ドイツの迫害から多くのユダヤ人を救った日本人外交官がいたことが知られています。リトアニア第二の都市カウナスにある杉原記念館に足を運びました。
(カウナス〈リトアニア〉で北條伸矢 写真も)
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開館して二年になる記念館は緑深い閑静な住宅街の一角にあります。タクシー運転手が「アメリカから来たユダヤ人の老紳士を乗せて来たことがある」と口にしました。
杉原千畝(ちうね)氏(一九〇〇―八六)はこの場所で、三九年七月から四〇年八月まで駐リトアニア日本領事代理として働いていました。現首都ビリニュスは当時ポーランド領だったため、首都はカウナスだったのです。カウナス・ユダヤ人協会元会長のシモナス・ドビダビチウス館長(42)が出迎えてくれました。
「半数がユダヤ人という都市もあったほど、リトアニアはもともとユダヤ人の多い国でした。独ソ不可侵条約秘密議定書に基づき、三九年九月一日にドイツが、続いて十七日にソ連がポーランドに侵攻し、占領地域から二十万人ともいわれるユダヤ人がリトアニアに逃げて来ました。杉原の赴任時期と重なります」
異変が起こったのは四〇年七月十八日の朝。日本領事館前に二百人ものユダヤ人が押し寄せました。すでにカリブ海のオランダ領キュラソー島のビザを取得した彼らは、ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めていたのです。
杉原氏は東京の外務省に判断を仰いだものの、結果は「拒否せよ」。悩んだ末、自分の判断で発給を決断しました。その後、九月五日にカウナスを離れるまで、記録が残っているだけでも二千人分ものビザを発給。その結果、子どもを含む六千人の命が救われたのです。
八月三日、ソ連軍の脅迫を受けた議会が「ソ連併合」を決議してリトアニアは独立国の地位を奪われます。ソ連は杉原氏に退去を要求しましたが、出発直前の駅のホームでもビザを書き続けたといいます。その後、ドイツ軍はリトアニアも占領し、大虐殺が始まりました。
館長は「リトアニアで生き延びたユダヤ人は6%でした。ユダヤ人大虐殺が知られ始めたのは四三年ごろからです。大虐殺の事実さえ知られていなかった四〇年当時、杉原のような勇気ある人間がいたのは驚きです」と語ります。
杉原氏は戦後、外務省を辞めさせられました。逃げ延びたユダヤ人と六八年に再会したのをきっかけに、二度にわたりイスラエルから勲章を授与されました。
昨年、記念館を訪れた日本人は団体客を中心に約七千人。ユダヤ人など日本人以外も千人が見学しました。夏には毎日数人の個人旅行者もやって来ます。
訪問した日も、ちょうど十数人の団体客が到着したところでした。展示室になっている元執務室で、日本留学経験のある大学生ビタリー・ミルコフさん(29)から日本語で説明を受けていました。
「まだ展示は少ないが、今後、建物すべてを買い取って充実させたい。見学者の募金で維持していますが、米同時多発テロ事件の影響で観光客が減り、頭が痛いところです」と館長。
しばらくして、会社を辞めて各国を旅行中だという堀北貴子さん(26)=埼玉県入間市=が一人で訪ねてきました。旅先で同宿だった日本人に「ぜひ見た方がいい」と勧められたそうです。堀北さんが語りました。
「戦争中、日本人は悪いことばかりしてきた印象がありますけど、杉原さんみたいな人がいて、ホッとしました」