日本共産党

2002年8月15日(木)「しんぶん赤旗」

高野山でつづった15歳少年兵の日記

体に爆弾巻いて戦車の下敷きになる訓練まで…


 社会部「8・15手記」応募係に太平洋戦争中の軍隊内の日記が寄せられました。海軍高野山(こうやさん)航空隊(和歌山県高野町)の隊員・斎藤茂夫さん=当時・十五歳=が書いたものです。特別攻撃(特攻)訓練の日々がつづられています。この日記が現代に語りかけるものは―。(藤原 義一記者)


海軍航空隊員(当時)

故 斎藤 茂夫さん

 日記の「高野山航空隊」という文字を見て最初に思ったのは「なぜ、真言宗の寺々がある高野山に海軍の基地が…」ということでした。

 高野山史を研究する佐藤任さん(70)=大阪府河内長野市在住=が教えてくれました。一九四四年から三重県四日市市の海軍航空隊が高野山に駐屯し、軍事基地化しました。各宿坊が兵舎にされました。山内は一万一千人の将兵でふくれあがったというのです。

 茂夫さんは愛知県挙母(ころも=いまの豊田市)の挙母中学校四年生のときの四五年七月、海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)として高野山航空隊に入隊しました。

 日記の一ページ目は、その初日、二十四日の日付。「軍人に合格した感激」をつづっています。

 軍隊は十五歳の少年を暴力で軍人らしくしようとしました。二十六日には、班員が衣類を紛失したことで班員全員が教員から「海軍精神を教えてやる」と罰を受けました。八月三日も「不規律」のため全員が教員に「海軍精神注入棒」(バットのような木の棒)で殴られます。「海軍精神ガ確カニ、入ッタ」。

 八日には「(アメリカ軍が日本本土に上陸すれば)我々甲飛モ、陸戦隊トナリテ驕米(アメリカ軍のこと)ヲヤツケル為、陸戦ノ訓練激シクナリ…」とあります。

 内容は、背中と腹に爆弾を巻いて穴に潜んでいて、アメリカ軍の戦車の下に体を投げ出し戦車のキャタピラを爆破する訓練でした。高野山の広場に木で作った戦車を据え付けて訓練しました。

 大元帥である昭和天皇の軍隊は、この期に及んでもなお、自殺して「敵」の戦車を食いとめるという恐ろしい訓練を少年に強いていたのです。

 十五日、敗戦。

 日記は、その三日後の十八日で終わっています。その日の日記は、「神州」日本の不滅を信じ、昭和天皇の心にこたえ、一日も早く米英に仇を返そうというもので「米英ニ負ケルナ、化学ノ発展」と結んでいます。


軍国少年生み出さないために

 この日記は、今年二月、茂夫さんが戦後すぐ寄留していた愛知県のいとこ宅で発見され茂夫さんに送られてきました。日記とは五十七年ぶりの再会です。

 茂夫さんは「軍国主義丸出しの自分が出てきて複雑な思いにかられているところです。今もって戦争でうまい汁を吸おうと狙っている勢力がはびこっている日本ですので反面教師としての貴重な資料として活用していきたい」と返事の手紙を出しました。

 戦後、茂夫さんは、昭和天皇のために一命を投げ出すという思想から解放されたのですが何度も自殺を試みたほど悩み、やがて記録映画監督として、日本共産党員として反戦、平和に尽くします。しかし、先月十一日、心不全で急死。その日朝も「しんぶん赤旗」を配っていたのですが…。

 この日記を「8・15手記」応募係に寄せたのは茂夫さんの妻・桂子さん(59)=保育園園長、東京都多摩市在住=です。

 「夫を失って何一つ整理することができず、混乱のなかにいますが、読者のみなさんに、一緒に考えていただくことから始めようと寄稿しました。有事法制三法案の根は絶たれたわけではありません。日本は、今またとても危険な道の選択を迫られているように思います。十五歳の軍国少年を生み出さないためにお知恵をお貸しください」

 桂子さんの言葉です。

 


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