2002年7月9日(火)「しんぶん赤旗」
八日の日本共産党創立八十周年記念講演会で、大原三千院元執事長・大原念仏寺住職の大島亮準さんと俳優・演出家の米倉斉加年(まさかね)さんがあいさつし、また日本共産党の首長を代表して秋田県湯沢市の鈴木俊夫市長があいさつしました。その要旨はつぎのとおりです。
共産党の創立八十周年記念講演会で、みなさんと一緒に世直しをめざして話をすると聞きまして、ふるって京都の山奥からはせ参じました。
政治は貧困であっても、ご参集の方々の迫力で、共産党が過去八十年間険しい時代を貫いて世直しに取り組んだ成果が、みなさんと共通の土俵に立っていることを確認して、年がいもなく興奮しております。
六歳で寺に入ったとき、家族の者が言ったことが思い出されました。「踏まれても踏まれても、根強くしのべ道芝の、やがて花咲く春のくるらん」。親は、世のため人のために役立つ坊主になってほしいといって、亡くなりました。
いま八十六歳を迎えまして、共産党が八十年間世直しに取り組んでこられた後ろ姿を拝見して、心をあらためて、二十一世紀を実のあるものにし、平和な世の中にしたいと願っております。みなさんとともに遅れないように歩いてまいりたい。今日の講演会を原動力としてみなさんと一緒に世直しに取り組んでいくことを誓い合って、ごあいさつといたします。
本日、この場で日本共産党の八十周年を記念して語れることがどれだけ光栄であることか、一生忘れないでしょう。
四十五年前、私の師である宇野重吉から「普通に言え」という演技指導の言葉をもらった。それは、「普通に生きる」ということです。
戦争中、普通の心をもつということは、平和を愛し、自由を愛すること―戦争に反対することでした。母と子が普通に生きる。戦争は、それを阻みました。私の弟は、戦争中に栄養失調で死にました。
六十九年前、一九三三年二月二十日に小林多喜二という、普通に生きる労働者の平和を願う心を描こうとした小説家は、殺されました。
いま、平和があるのは、政治家が頑張ったからという声がありますが、私は、「違う」という。声なき声が、叫び続けてきたからこそ、危うい平和は、今にも壊れそうになりながら、こうして守られているのです。その先頭に立っていたのが日本共産党です。(拍手)
私は、日本共産党の発展を心から願ってやみません。
党員首長を代表して、一番若い私からあいさつさせていただきます。
湯沢市は秋田県最南端の人口三万五千人、「東北の灘」といわれる酒、米どころの、東北ではごくふつうの地方都市です。
しかし、そこで東北で初めての党員の首長となりました。姉妹都市の釧路市から市議団が訪れたときに、私たちの議会の副議長は、“釧路は鈴木宗男で有名になったが、湯沢は共産党員の鈴木俊夫で有名になった”(笑い)とあいさつし、乾杯しました。
私は十九歳で入党し、二十八歳から選挙に十回出て、市議二回、県議二回、市長一回の当選で五勝五敗。打率はいいほうでしょうか。人間頑張っていればいいことがある。日本共産党も八十年間の長きにわたって日本の民主主義、平和のために頑張ってまいりました。私もその一員として住民のために役に立つ地方政治を実現するために頑張っていきたいと思っています。
六月議会では介護保険利用料の半額軽減、国民健康保険税の軽減、市長報酬の30%削減、市長交際費の半額カットなどの公約を実現しました。これからもますます頑張っていきたいと思います。
紹介される(右から)秋田・湯沢市の鈴木俊夫市長、東京・狛江市の矢野裕市長、長野・木曽福島町の田中勝巳町長、滋賀・びわ町の橋本健町長、兵庫・福崎町の嶋田正義町長、兵庫・南光町の山田兼三町長