2002年5月4日(土)「しんぶん赤旗」
日本共産党の筆坂秀世書記局長代行は、三日放映(四月二十八日収録)のNHK憲法記念日特集番組「“憲法”各党に問う」に出演し、各党代表と憲法九条や有事法制などについて討論しました。出演者は、自民・山崎拓幹事長、民主・中野寛成副代表、公明・冬柴鉄三、自由・藤井裕久、社民・福島瑞穂、保守・二階俊博各幹事長。
番組の冒頭、NHKが行った世論調査結果が紹介され、「憲法改正」について「必要がある」と回答した人が58%、「必要はない」23%、「どちらともいえない」11%でした。 この結果について、山崎氏は「憲法改正のための国民投票は過半数をえられればいいので、国会で三分の二の多数をえられれば、改正できる条件がととのっている」とのべました。中野氏は「憲法をもう一度見直したらどうかという冷静な判断が出てきた」と主張。冬柴氏は「(国民の意識は)改正の方に動いている」と主張。藤井氏は「日本の憲法は古過ぎる」とのべました。筆坂氏は次のようにのべました。 |
筆坂 一つは、(憲法が)できて半世紀以上たって“古くなった”という議論もよくされる。ですから、ある意味ではそういう声が出てくるのも、当然かなという感じがします。
ただ、問題は、それだけでなく、いまの政治に対する考えも反映していると思います。いまの政治を変えたいという気持ちが(ある)。私は、古くなっているのは憲法ではなくて、政治の実態の方が憲法に追いついていないと思うのです。
もう一つは、改正の中身をよくみる必要があると思います。この世論調査をみましたら、憲法九条が平和と安全に役に立っているというのが73%です。「守るべきだ」は52%です。たしかに改正という声が多いのですが、やみくもな改正論ではない。しかも、憲法九条はしっかり守りたいということがよくあらわれていると思います。ですから、ここは真摯(しんし)にみる必要があると思います。
福島氏は「(平和主義や基本的人権の保障など)憲法への否定的な声ではない」とのべ、二階氏は「改正について国民の間に理解が浸透してきた」とのべました。 |
「戦争放棄を定めた憲法九条」について、世論調査では「改正の必要がある」30%、「必要はない」52%、「どちらともいえない」9%となり、九条擁護の声が過半数を占めました。また、「日本の安全を守る方策」として、「国連に協力して国際的な安全保障体制を築いていく」57%、「ある程度の防衛力をもって、アメリカとの協力関係を続けていく」22%、「いっさいの防衛力をもたないで、中立をたもっていく」9%、「わが国独自の防衛力だけで外国からの侵略に備えていく」6%となりました。 九条改憲の必要がないと答えた人が過半数を占めた結果について、山崎氏は「非常に情緒的な反応だ」とのべ、「国連協力、日米防衛協力は、いまの九条からこの解釈は出てこない。むりして現状を追認している。国民の反応はおかしい」とのべ、自衛権を憲法に明記すべきだと主張しました。中野氏は、設問を変えれば、違った結果となっただろうと主張。藤井氏は「国際協力することを憲法に書くべきだ」「イージス艦を持っている国が戦力をもたないというのは、政治不信の根源だ」とのべました。 筆坂氏は、司会者に、九条を持ちながら自衛隊を持ち、日米軍事同盟を結んでいることについて「国民に分かりにくいという議論をどうみるか」と問われ次のように答えました。 |
筆坂 今回の世論調査をみれば、私は憲法九条に対する、国民の平和に対する熱い思いが非常に率直に出ていると思うのです。
憲法九条をもった理由は、二つあると思います。一つは、あの侵略戦争をやった、植民地支配をやった、これに対する反省です。もう一つは、国際社会の一員として、平和創造のいわば先頭に立っていくという決意――これが九条に込められていると思うのです。
集団的自衛権の問題についていいますと、先ほど山崎さんが、国連に協力して国際的な安全保障体制を築いていくということと、アメリカとの協力関係を続けていくということを合わせておっしゃったのですが、これはまったく別物だと思います。
国連でいっている集団安全保障体制というのは、集団的自衛権の問題ではありません。集団的自衛権の問題というのは、これはまさに軍事同盟の根拠になっているのです。どこかの国がドンパチやれば、第三国がそれと一緒になってたたかう、これが集団的自衛ですから、「自衛」という名はついていますけれども、実際には自衛とは何の関係もないのですよ。だから私たちは、これは“集団的攻撃権”だと思っています。
国際協力といった場合は、日本はこういう憲法九条をもった国だということで国連に加盟しているわけです。ですから、“国際協力イコール軍事”ができなければ国際協力はできないというのは、まったく皮相な見解です。憲法九条をもっている国にふさわしい国際協力、国際協調、これは憲法九条をもっている国だからこそできる。
例えば、武器輸出三原則の問題がある。戦後、武器輸出が行われ、武器がどんどん世界に拡散している。そのときに、武器輸出やめようじゃないかと提起できる、そういういわば道義的な根拠をもっているのは日本です。この強みを生かさなければだめですね。
山崎氏は、「国連に兵力を提供しないと国際常識として通らない」とのべました。二階氏は「自衛隊の存在が憲法で位置付けられていない。憲法を見直す段階にきた」とのべました。山崎氏は、現行憲法が施行されたのが一九四七年五月だったことについて、「国が独立を失っていたときにできたものだ。被占領国家の憲法だ。だから九条があるのは当然だ。独立がないから、軍隊などあるはずがない。主権国家の憲法としてきわめて不適切だ」などとのべました。 筆坂氏は次のようにのべました。 |
筆坂 まったく成り立たない議論です。たしかに、あのとき憲法の草案にGHQ(連合国軍総司令部)が関与したことは事実です。しかし同時に、憲法調査会の中でも明らかになっているように、このときには日本人がつくった憲法草案とか、そういうものが全部参考になっているのです。ですから、あれがまったくの占領下における押し付け憲法だなんていう議論は、もう憲法調査会の中でも成り立たないということになっているのです。
同時に、五十五年間、われわれ日本人自身が、この憲法をいわば育ててきたわけです。血肉にしてきたわけです。ですから、いまの山崎さんの論法というのは、そのこと自体を否定することになります。
もう一つ、集団的自衛権の問題でいえば、きょうの世論調査にもありますが、国際的な安全保障体制ということと個別的な軍事同盟というのは、まったくの矛盾です。つまり、国連で当初予想していたのは、世界のすべての国が一緒になって集団的な安全保障体制をつくろうということで、二国による軍事同盟なんて想定してないのですよ、もともとは。(アメリカが)後から言い出したのですよ。
しかも、集団的自衛権が実際に行使された歴史をよくみる必要があると思うのです。例えば、旧ソ連がアフガニスタンに侵略するとき、アメリカがベトナム戦争をやるとき、このときにはアメリカも旧ソ連も、集団的自衛権の行使だといって、あれをやっていったわけです。ですから、集団的自衛権を日本が行使できないのは当たり前の話です。これは、まさに侵略の論理です。
二階氏は「(国際協力のために)自衛隊の活動が不可欠だ」と主張。筆坂氏は、司会者に「国際社会で役割を果たしてゆくためには、日本だけが安全地帯に逃げ込んでいる形でいいのかという議論がある」と問われ、次のようにのべました。 |
筆坂 私は、「国際社会」ということが不正確に使われていると思うのです。例えば、「周辺事態法」だとか、「テロ特措法」だとか。「国際社会」といいますが、実際に日本に軍事的な貢献を求めてきているのはアメリカです。別にアジアの国から日本は軍事的に貢献すべきだという声はどこからもあがっていないでしょう。「国際社会」「国際社会」といいますが、実際にはアメリカの要請だけです。
例えば、集団的自衛権の行使にしても、アーミテージ(米国務副長官)などが集団的自衛権を行使するようにしろといっている。ですから、「国際社会」とアメリカとの使い分けをしてはだめです。
われわれが国連に加盟するときに、日本は憲法九条をもっている国なんだ、陸海空その他の戦力を保持しないという国なんだということは、国連も認めて日本は加盟しているわけです。しかも、国際社会への貢献というのは軍事的貢献だけというのは、あまりにも皮相に過ぎる。もっとほかにいろいろな貢献ができると思います。
山崎氏は、「自衛権の行使」の名で武力行使ができるようにすべきだと主張。陸海空軍の戦力を保持すべきだとのべました。藤井氏も「同じ意見だ」とのべました。 |
有事三法案について、山崎氏は「武力攻撃事態」とは日本が侵略された場合だと主張。小泉首相が「武力攻撃事態」と「周辺事態」が併存する場合があるとのべたことについて、筆坂氏は次のようにのべました。 |
筆坂 いまの「周辺事態法」でしたら、仮に「周辺事態」が発生したときには、日本は「後方地域支援」――これ自体、まさに兵たんそのもので、集団的自衛権の行使にあたると思いますが――それが(武力攻撃事態に)重なるということは、結局、「周辺事態」が発生すれば「武力攻撃事態法」が動きだす、つまり有事法制が動きだすということになるわけです。
ですから、山崎さんが、「武力攻撃事態」というのは侵略されたときだとおっしゃいましたが、そうではないのです。「おそれの段階」というのは、まだ侵略されていないわけですから。つまり、実際の侵略なんか起こっていない、アメリカがどこかでドンパチやる、さあ「周辺事態」だというので、日本もこれに加わっていく、そのときに国民を動員していきましょう、自由と人権を制限しましょうというのが、今度の法律ですから。まさにアメリカの戦争にいかに日本が協力していくか、国民まで動員するか、これがこの法律の一番の問題だと思います。
この指摘に、山崎氏は「国民を惑わす議論だ」などと発言。二階氏は、これまで有事法制を作成せず、「放置していたのは政治の責任だ」と主張。筆坂氏は次のようにのべました。 |
筆坂 有事法制というのは、古今東西の歴史をみても、必ず人権抑圧と結び付いているのです。戦前だって日本は「自存自衛」ということでやったのですよ。国防を図るというので国家総動員法をつくって、強制的に国民を戦争に動員していったわけです。有事法制というのはそういう歴史をもっているのです。ですから、いままでなかったのです。
それから、山崎さん、(「国民を惑わす」などと)ごまかしてはだめです。「周辺事態」というのはアメリカの軍事行動が大前提です(山崎氏うなずく)。それがなかったら、日本の「後方地域支援」なんて起こりえないわけですから。しかし、日本有事ではない、あくまでも「周辺事態」でしょう。そのときに、自衛隊が「後方地域支援」をする。今度はそれと重なるといえば、有事法制が動きだすわけです。だから、私がいったことはごまかしでも惑わすことでも何でもないのです。
中野氏は「有事法制を講じるのは国会の義務だ」とのべ、二階氏は「国民のためにやるのだから、国民の協力が大切だ」とのべました。有事三法案と基本的人権のかかわりについて、筆坂氏は次のようにのべました。 |
筆坂 私は重大な問題があると思いますね。
例えば、食料や燃料の保管命令に違反すれば、罰則があります。戦争というのは他のものと違うのです。どんな戦争でも、反対論者というのは出てくるものです。例えば、いまのイスラエルのシャロン政権のもとで、テロに対する“自衛反撃”だということでやっているでしょう。しかし、国際社会はそれを自衛反撃だと認めるかというと、認めないですよ。国際社会は、厳しく批判しています。日本だってそういう立場をとっています。ですから、国内でも徴兵を拒否する青年も出てきています。
この(法案で)有事というのはどういう有事なのか。つまり、アメリカが「悪の枢軸」論をたてに戦争をする。それに日本が参加しているために、日本がかかわってくるという場合だってあるわけでしょう。そういう場合には、こんな戦争には協力したくないという思いで、この命令に違反する人だって出てくるわけです。そうすると、形の上では、物資保管命令に違反したことになるけれども、実は、そのことによって、その人の思想・信条、内心、こういうものが裁かれることになるわけです。ですから、これは本当に重大な基本的人権の侵害になると思います。
これに対し、冬柴氏は「日本に外国から侵略を受けているときに、そんなこといっていてはすぐやられてしまう」などとのべました。二階氏は「家屋の一部を取り壊し、陣地を構築するとしても、もっと立派な家にちゃんと移すし、国民に迷惑をかけるわけでない」などとのべました。山崎氏は「いまの筆坂さんの発言のように、(戦争協力を)拒否できないというが、日本の国が侵略されている事態で、こんなバカな話はない」とのべました。筆坂氏は次のように反論しました。 |
筆坂 もし本当に日本が侵略されたような、そういう戦争が――私たち、あまりそれは想定できないですが――万一起これば、罰則なんかつけなくても国民は立ち上がりますよ。当たり前でしょう。あなたがたが想定しているのは、そうではない。
首相公選制について、「憲法を改正して導入すべきだ」とする人が世論調査で61%にのぼったことについて、議論となりましたが、すべての政党が首相公選制の導入に慎重姿勢を示しました。筆坂氏は次のようにのべました。 |
筆坂 やはりいまの政治不信のあらわれがこういう調査結果に出てきていると思うのですね。
私は、いまの日本の制度というのは、なかなかよくできていると思うのです。やはり、行政権は下手をすれば暴走する、独走するということは、これまでの歴史の中でもありました。ですから私は、行政権をいかに議会制民主主義のもとでコントロールしていくかということのために、憲法では、国会は国権の最高機関ということを位置付け、首相の指名権あるいは不信任あるいは予算、行政監督等々の権利を与えている。そういう点では、行政と立法府、このバランスというのは、なかなかうまく考えられていると思います。
もし、首相公選ということになれば、事実上の大統領制になるわけですから、これはやはり議会との関係でどうなるのか、暴走の危険はないのかということを考えると、やはりいまの制度のもとで中身をどう充実させるかということが大事です。
また、世論調査で、プライバシー権、知る権利、環境権などの「新しい権利」を憲法に書き込むべきだと答えた人が59%にのぼったことについて、筆坂氏は次のようにのべました。 |
筆坂 すでに日本の憲法というのは一一条から四〇条まで三十条にわたって国民の権利が書かれている。これぐらい書かれている憲法というのはサミット参加国の中でもそうはないのです。
こういう権利がおおいに大事だということを主張されることはたいへん結構なことですけれども、やはり一三条の幸福追求権のなかに環境権も入るのだとか、知る権利というのは、思想・信条の自由、良心の自由だとか、これを本当に保障しようと思えば、やはり真剣に保障する必要があるというふうになっていくわけですから、私は、憲法をあえて変えなくても、これは当然の権利として認められているし、憲法学会でもだいたいそういう解釈になっているのではないでしょうか。
こういう権利を主張することは大いにいいのですが、それを憲法にそれぞれ全部書いていくという必要はないのではないでしょうか。